中野京子さんの「怖い絵」シリーズで紹介されて、「読んでみたいなあ…」と思っていたのが「幼年期の終わり」。
手に取る機会があり読んでみると…あまりの面白さに後半は一気読み!
さっそく感想を書いてみます!
「幼年期の終わり」のあらすじをザックリと(ネタバレあり)
まずは「幼年期の終わり」のあらすじをザックリと紹介します。ネタバレ有りなので注意してください!少しでも「読んでみたい」と思う方はネタバレを見ないことをおすすめします!
「幼年期の終わり」は、地球に人類以上の知性と文明を携えた宇宙人「オーヴァーロード」が飛来するところから物語がはじまります。
人類より格上の「オーヴァーロード」は、人類への理性的説得と必要最小限の武力を使って、人類の紛争や自然破壊の問題をスルスルと解決していきます。
要するに、一見「良い宇宙人」ですね。
「オーヴァーロード」支配下で、戦争や犯罪から解き放たれた人類は、平和で理想的な時代を築いていきます。
このあたりの話の流れでは、「この物語は『人類の平和と繁栄は宇宙人が来ないと到来しない』というテーマなのかな?」なんて思ってしまいますが、物語は途中で一変します。
人類には知らされていませんが、「オーヴァーロード」の上には「オーヴァーマインド」というものが存在しています。
「オーヴァーマインド」は宇宙人ではなく、さまざまな宇宙の種族の精神が合体した…物質(=肉体?)を持たない、宇宙の精神エネルギーのようなものです(たぶん。ちょっと難しいのですが)。
「オーヴァーロード」が地球に来た目的は、人類を個体を超えたひとつの統合体へと変化≒進化させ、「オーヴァーマインド」が吸収できる状態にすること。
「人類と個人」の関係は、「身体全体と一つの細胞」のような位置づけとなり、個の意識はなくなり、人類全体が同じ意識を共有するようになります。
で、その一つになった新しい人類は、「オーヴァーマインド」に吸収され一体化されてしまう。
そして旧人類は滅亡し地球の歴史は終わるが、人類は精神体として「オーヴァーマインド」の一部となり、宇宙のどこかに精神体として存在し続ける…。
これはハッピーエンド?それともバッドエンド?…非常に恐ろしい物語でした。
オーヴァーロードとオーヴァーマインド…どちらが幸せ?
この本を最後まで読み終わって、すぐに思いにふけったことがあります。
オーヴァーロードとオーヴァーマインド…どちらの運命をたどる方が幸せなんだろう?
実は宇宙人「オーヴァーロード」は、人類のように「オーヴァーマインド」と一体化することができません。
人類は潜在的に目に見えない超能力のようなものを持っているが(この本での設定です)、人類より遥かに知性が高い「オーヴァーロード」にはそのような潜在能力がなく、オーヴァーマインドへと一体化できない生物なのです。
なので、「オーヴァーロード」は肉体から離れて精神体にはなることはできません。この宇宙=物質世界が終わるときには、オーヴァーロードの歴史も終わるのです。
「オーヴァーロード」と、「オーヴァーマインド(人類はこっち側)」の違いをまとめてみます。
私たちが生きているこの世界は、「地球も宇宙もいずれ終焉を迎える」というのが、現在の人間の知性が及ぶ範囲での予想です。
地球も宇宙も終われば、私個人の人生のみならず、人類が存在していたことすら無となってしまう…。
ですが、もし人類が物質を必要とせず、完全な精神的存在(そんなものがあれば…というSF的設定ですが)になれたら、宇宙という物質世界が消えても存続できるかもしれない。
「オーヴァーマインド」への統合は、「永遠の無」という恐怖を乗り越える方法ということになりますね。
なので「オーヴァーロード」は、人類のことを「うらやましい」と言うのです。
でも…どうですかね?個体としての意識を失うことは、個体の死を意味します。
たとえ大きな精神体の一部となっても、個体の自由な意識を持たないのであれば、永遠に宇宙のどこかを漂うことに意味はあるでしょうか?
…私の現段階の答えは「NO」ですね。フランス革命のスローガン「自由を、さもなくば死を」。私の価値観はこちらの方に近いです。
幸せに生き抜いた旧人類はいなかったのか?
「幼年期の終わり」では、人類が「オーヴァーマインド」化していきますが、「オーヴァーマインド」化するのは子どもたちだけです。
子どもたちは個々の垣根を超えて、精神的に一体化していきますが、精神ができあがってしまっている大人は精神が変化(進化)することができません。
そこで人類は精神的に一体化した新人類(=子ども)と、昔のまま個の意識を保った旧人類(=大人)に二分されます。
新しく生まれた子どもは皆、新人類の意識に吸収されていくので、旧人類の歴史は終わります。
「幼年期の終わり」では、子どもたちを奪われ、種としての未来を失った旧人類たちが静かに自殺していく姿が描かれます。
自殺を選ばない者もいたが、自暴自棄で危険な遊びにふけったと。
しかし、「こんなことを言った者もいた」んですよね。
それでも世界はやはり美しい。どのみちいつかはここを離れなくてはならないんだ。急ぐことはないだろう?
「いつかはここを離れる」とは、個体としての死、現世にサヨナラすることを意味するのでしょう。
種としての未来はなくても、個体の一生の長さは変わらない。
「こんなことを言った者」は、残された個体としての時間を、平和な心持ちで楽しく過ごした…と期待してよいのでしょうか。
種としての未来を失った人類は、もちろん自暴自棄になる者もいるでしょうが、案外、心静かに過ごす者もいるかもしれません。
伊坂幸太郎の「終末のフール」がそういった小説ですね。
種の未来はなくても、自分の未来はしっかり生き抜く…そんな境地に至るには、どんな哲学が必要なんだろう…考えさせられます。
「幼年期の終わり」のラストは「最後の審判」に似ている
「幼年期の終わり」のラストは、地球の滅亡で終わります(人類は新人類が「オーヴァーマインド」に吸収されるため滅亡とは断言できない)。
つまり地球滅亡の物語ともいえるわけですが、物語全体に、キリスト教の「最後の審判思想」が色濃く影を落としているように思えます。
何と言っても、地球の滅亡に立ち会う宇宙人「オーヴァーロード」の外見はキリスト教の悪魔ソックリ。
「オーヴァーマインド」は、非常に巨大な超自然的能力を持った精神体で、全知全能の神に置き換えられそうです。
その「オーヴァーマインド」に吸収される新人類はイノセントな子どもたちであり、取り残されて滅亡する旧人類は罪深い大人たち。
子ども(=善人?)が「オーヴァーマインド」という永遠の生≒天国へ吸収され、大人(=悪人?)が滅亡という地獄へと落とされる図式も、最後の審判を思わせます。
また「オーヴァーロード=悪魔」が、人類をうらやましがるというのも興味深い設定です。
「オーヴァーロード=悪魔」は「オーヴァーマインド=神」の手下として最後の審判を手伝いますが、自分たち自身は決して天国へ行けないですからね。
読者である私たちが「第三の道」を探す手がかりは?
ちなみにキリスト教では、悪魔はもともと天使であり、神に反逆して堕天使→悪魔へとなったという説もあります。
「オーヴァーロード」は非常に知性の高い生物ですが、高すぎる知性が神への反逆と結びつくのは、聖書の「知恵の実」「バベルの塔」などの逸話でも見られるテーマです。
そう考えると「幼年期の終わり」は、知性至上主義、科学至上主義への警告とも読める作品なのかもしれません。
確かに世界には知性や科学では説明できないものがありますし、知性や科学に傾きすぎることは危険ではあります。
それでも私はやっぱり、個を失い、本能的で超自然的な力を発揮する「オーヴァーマインド」に吸収され、永遠にその一部になりたいとは思わないけどな~。
オーヴァーロードの知性オンリーでもなく、オーヴァーマインドの超自然でもない道を探す手がかりとして、キーワードになるのは「芸術」なのかなと思います。
オーヴァーロードの世界に芸術はないですし、新人類も芸術とは程遠い存在となります。
それに対し、最後の旧人類となったジャンは、最後の日までピアノを弾くことに勤しみます。
音楽は、いつか彼を屈服させるに違いない孤独から身を守る護符のようなものだった。
人間を救うのは、知性でも超自然でもなく、情緒なのではないか…。人間が芸術を解したり、他者に共感したりする力「情緒」。
そこに「オーヴァーロード」とも「オーヴァーマインド」とも違う、第三の道への手がかりが見つかるのではないか。
そういえば「幼年期の終わり」に天使のような存在は登場しませんが、西洋絵画で天使はよく楽器を手にしていますね。
「オーヴァーロード」が人類の「オーヴァーマインド」化を促すために、文化・芸術といったものを巧妙に退化させた意味は深いのかもしれません。
まとめ
「幼年期の終わり」を読んだ感想でした。
あまりにも深い物語すぎて…ここに書き切れなかった小さな感想はまだまだたくさんあります。
「予知という発想の面白さ」とか「他の種族を強制的に進化させることは宇宙的に許されるのか?」とか「エヴァンゲリオンの人類補完計画を思い出した」とか…。
一つ一つ書いていくとキリがないので、また別の機会に考えられれば…と思っています。
ちなみに「幼年期の終わり」がハッピーエンドなのかバッドエンドなのか…ですが、難しいですね。
全体としては、「オーヴァーマインド」化を幸せだと感じない私にとってはバッドエンドに感じました。
その一方で最後の人類=ジャンが、この物語の真実にたどりついたことは、ほんの少しだけですがハッピーなのかなと思います。
「幼年期の終わり」はいくつかの出版社さんから出ていますが、私は「光文社古典新訳文庫」版で読みました。
「光文社古典新訳文庫」版を選んだのは、「光文社古典新訳文庫」が海外古典文学を読みやすい日本語で訳すことをコンセプトにしているからです。
他の出版社から出ている「幼年期の終わり」と読みくらべてはいませんが、この「光文社古典新訳文庫」版は、コンセプト通り読みやすい日本語だったと感じています。