智弁和歌山の高嶋監督ご勇退のニュースを受けて、しゅくしゅくと行っている高嶋先生祭!
7日目は、「強くなる前の智弁和歌山」について語ります。
智弁和歌山は「いきなり」出てきたチームではない
私には、私以上にスポーツ観戦大好きな伯母がおります。ちなみに、見るスポーツの守備範囲が、私よりもはるかに広いです。世界バレーとかを、深夜にわざわざ起きて見るような伯母です。
その伯母は、あまり智弁和歌山が好きではないのですが、智弁の全盛期に、
智弁は何かいきなり現れて、急に勝ちまくるようになって、うさんくさいのよねえ。
なんてことを言っていたことがありました。
ちがう、ちがうよ、おばちゃんっ!智弁和歌山はいきなり現れたんじゃないよ!高嶋先生の率いる智弁和歌山は、甲子園で初勝利を上げるまでは、甲子園の初戦で5連敗しているんだよ!
伯母は、私より広くスポーツを見る分、高校野球に特化して観戦はしないので、あまり甲子園の初戦は熱心に見ないんですよね。
しかし、私がそのことを訴えても、「でもおばちゃんにとっては、見てないから『いきなり』なのよ」というお答えでした。なるほど~。
高嶋先生の智弁和歌山は5連敗で始まった
高嶋監督は、智弁和歌山の監督として61勝をあげていますが(智弁学園時代を含めると68勝)、最初は5連敗スタートでした。
5連敗って、結構、気が滅入りますね。
だって、勝負は勝つか負けるかなんだから、単純に考えると半分の確率で勝てます。
それが、5連敗するなんて、数字上だと0.03%の確率!「現実には起こりえない」と言われそうな数字です。
あの、監督最多勝を誇る高嶋先生も、最初はまさかの5連敗スタートだった。
人生でうまくいかない時期があった時に、心の支えになりそうなエピソードです。
「ただの負け」を重ねたわけでない
ですが、この5連敗、ただの敗戦ではなかったのではないかと思っています。
この5連敗を並べてみると、
1985年 1-3駒大岩見沢 |
1987年 1-2東北 |
1989年 1-2成東 |
1991年 2-3学法石川 |
1992年 3-4拓大紅陵 |
この中で、私が記憶にあるのは、1989年以降の試合です。
1989年の成東高校には押尾投手、1991年の学法石川には川越投手という大会屈指の好投手がいたため、よく覚えているんですよね。
89年は押尾投手、91年は川越投手をあと一歩打ち崩せず、ロースコアの接戦の末、敗れました。
ただし、手も足も出ず「ただ負けた」というよりは、好投手にしっかり挑みながら、勝ちきれなかったという印象でした。
また、92年の相手・拓大紅陵は、その年に準優勝した力のあるチーム。その拓大紅陵に見劣りしない試合をして、「智弁和歌山って勝てないけど弱くはないよな」と思わせたものでした。
1993年に初勝利!そして翌春の全国優勝へ
智弁和歌山が、待望の初勝利を上げるのは、1993年です。
智弁は、1996年の2年生エース・高塚の故障から複数投手制を始めたと思われがちですが、1993年のチームは既に継投型のチームで、同じくらいの力を持つ投手を、4人そろえたチームでした。
エースの有木がカッコよかったので、よく覚えてます~。
1991年に、沖縄水産の大野投手が、故障した状態で決勝まで投げ続け、投手の投げすぎによる故障問題が、話題になりはじめていた時期でした。
そんな時期に、時代を先取りした斬新なチームとして、智弁和歌山の複数投手制が話題になったのです。
この1993年夏に、2勝をあげた智弁和歌山。
1学年10人制だったこともあり、ベンチ入りしていた2年生が多く、翌年の春に、この夏に甲子園での勝利を経験したメンバーが、全国優勝を果たします。
その後の智弁和歌山の躍進は、言うまでもありませんね。
「良い失敗」の繰り返しは成功につながる
智弁和歌山の監督として61勝をあげた高嶋監督の5連敗スタート。
この5連敗はただの敗退ではなく、強いチームにチャレンジし、負けながらも何かをつかむことを繰り返していたのではないかと感じます。
「良い失敗」の繰り返しが、その後、大きなことを成し遂げることにつながっていったのではないかと。
高嶋先生の足跡を見ていると、失敗をどれだけ「良い失敗」として、後の自分に活かせるかということが、いかに大事かということを思い知ります。
大きな課題に全力でぶつかることは失敗しても自分の財産となること。そしてそのような失敗が繰り返されても諦めないこと。
名将が残した足跡は、高校野球にたずさわる人たちだけでなく、私にとっても大きな教えとなってくれそうです。