中島みゆきの「空と君のあいだに」を久々に聴きました。
歌詞に難しい言葉や表現はありませんが、誰のどんな気持ちを歌った歌なのか、意外とわかりづらい一曲です。
中島みゆきさんは「聴き手の解釈にまかせる」というスタンスで、自身が作った歌詞を解説しないことで知られています。
そういうわけで正解はわからないのですが、私なりに歌詞の意味を考えてみました。
「空と君のあいだに」はドラマ「家なき子」の主題歌
「空と君のあいだに」の歌詞全体は、こちらUta-Netをご覧ください。
「空と君のあいだに」は1994年にドラマ「家なき子」の主題歌として、シングル発売されました。
1990年代の音楽シーンは、ヒット曲となる条件のひとつに「人気ドラマとのタイアップ」というものがありました。
「家なき子」は子役時代だった安達祐実が主演し、不遇な少女が「同情するなら金をくれ」と叫ぶ名ゼリフが生まれたヒットドラマです。
ドラマの勢いと同じように「空と君のあいだに」もよく売れて、ミリオンセラーとなりました。
「空と君のあいだに」の歌い手はペットの犬!?
ドラマ「家なき子」では、安達祐実が演じる不遇な少女の傍らに、いつもペットの犬がいました。
実は「空と君のあいだに」の歌詞は、この犬視点から描かれたという説があります。
タイトルにもなっているサビ部分の
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
「空」と「君」の間に雨が降っている光景は、犬が「君」を下から見上げているからそう見えるのだと。
言われてみれば、身長が同じくらいの人間どうしの場合、雨は「空」と「僕たち」の間に降っているように見えるでしょう。
また、自らの歌詞についてめったに解説しない主義の中島みゆきさんが、そのようなことをおっしゃっていたような記憶もおぼろげながらあります(不確実情報だけど)。
ですが「空と君のあいだに」の歌詞はなかなか複雑で、
孤独な人につけこむようなことは言えなくて
…などという歌詞は、さすがに犬が主体とは考えにくいです。
犬が人を見上げた視点をヒントに「空と君のあいだに」という表現が生まれた可能性はありますが、歌詞全体としては、ペットの犬が主人への気持ちを歌った歌ではないと思います。
「僕」と「君」はどのような関係か?
では、「空と君のあいだに」に出てくる「僕」と「君」はどのような関係か。
これはシンプルに、「僕(=男性)」は「君(=女性)」に思いを寄せている関係と考えてよいでしょう。
君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
という表現もありますし、二人称・君=女性、一人称・僕=男性という構図は間違いないでしょう。
三人称「あいつ」はどのような存在か?
「空と君のあいだに」に登場する人物はもう一人、三人称である「あいつ」が存在します。
君を泣かせたあいつの正体を僕は知ってた
ひきとめた僕を君は振りはらった遠い夜
君がすさんだ瞳で強がるのがとても痛い
憎むことでいつまでもあいつに縛られないで
「あいつ」について歌詞の中で語られる情報は
また、こういった情報と2番冒頭の歌詞は重なるので、「あいつ」は「君の心がわかる」とたやすく誓った男のことを指すのでしょう。
女性をもてあそんで泣かせるような、モテるけど狡猾な男性というイメージですね。
「僕」は「君」を見守るだけの存在
典型的な「悪い男」っぽい「あいつ」に、愛憎の混じった感情で縛られている「君」。
「君」が泣くだけならまだしも、「空と君のあいだには今日も冷たい雨が降る」という表現を考えると、「君」はずいぶん不幸な状況に陥っていることが推察されます。
「僕」はそんな「君」に対してあまり積極的な態度を取れていない感じです。
「君」を「ひきとめた」ことはあるようですが、振り払われてしまうような弱い引き留め方。
またやや謎めいた表現になっている
君が涙のときには 僕はポプラの枝になる
孤独な人につけこむようなことは言えなくて
という部分からわかるのは、「君」が泣いたりつらい状況に追い込まれたりしても、「僕」は「ポプラの枝になる」くらいしかできないということ。
ポプラの枝…枝だけでは君に降りかかってくる、雨のような不運を完全に防ぐことはできません。
それでも「僕」は、「孤独な人につけこむ」ことはできない。
「あいつ」に対して傷ついている「君」に対し、異性として甘い声をかける…具体的には「あいつと別れて僕とつきあおう」みたいなことを言えないということでしょうね。
ここにいるよ 愛はまだ
ここにいるよ いつまでも
中間の部分で歌われるこの歌詞のように、「僕」は「君」に対し、ポプラの枝のような不完全な「雨しのぎ」のような形で、そばで見守るしかできないということでしょう。
「悪にでもなる」の真意は何か?
さて。「空と君のあいだに」は、不幸な女性を見守る男性の歌という感じを受けますが、最後に非常に不穏な歌詞が入ります。
空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる
このサビの部分は、前半部分の長調から短調へと変調が行われることもあり、ガラッと雰囲気が変わります。
穏やかに「君」を見守る「僕」なのかと思いきや、君のためなら悪にでもなる。
私は昔、このサビの部分があまり好きではありませんでした。
「好きな人のためになら悪になってもよい」という、「愛」を単純に絶対肯定するような歌詞が好きになれなかったんですね。
しかし…改めてこの歌を聴いてみると、どうもこのサビ部分は「愛のためならどんな悪でも犯していい」という意味ではないような気がしてきました。
というのも「悪にでもなる」という歌詞は、具体的に何をしようとしているんだろう?と考えてみると、「僕」は「君」を苦しめる「あいつ」を「君」の前から消そうとしているのではないか…と思えてきたのです。
この歌は不幸な「君」を見守るだけだった「僕」が、「君」に降る雨を見ながら、「君」の不幸の元凶である「あいつ」を殺すことを考えついた…その決意を歌った歌なのではないか。
「君のためなら悪いことでも何でもするよ」という盲目的愛ではなく、「悪を消すための悪は仕方ないのではないか?」という、ドストエフスキーの「罪と罰」や漫画「デスノート」で描かれる、人間の倫理的な揺れがテーマなんじゃないか…。
そう考えると「僕は悪にでもなる」と、「僕」がこれからやること(=「あいつ」を消す)を「悪」だと認識していることが深いです。
「毒をもって毒を制す」のように悪には悪でしか太刀打ちできないこともあるとか、愛が悪という形で結実しまうことがあるとか…この歌は単純な愛賛歌には聞こえなくなってきます。
しかし聴き手である第三者の私たちは思います。
「君」の笑顔が見たくて「あいつ」を消そうとしている「僕」だけど、「君」は憎みながらも「あいつ」を深く愛している。
「僕」が「君」のために決死の思いで犯す悪は、「君」を笑わせる結果にはならないのではないか。
そこまで考えるとこの歌は非常に悲劇で、悲痛な響きを帯びてきます。
まとめ
以上、「空と君のあいだに」の歌詞について考察してみました!
昔はあまり好きな歌ではなかったのですが、改めて違う角度から歌詞を眺めてみると、歌の印象がずいぶん変わりました。
複数の解釈ができる歌ですし、中島みゆきさんの姿勢を考えると「正しい解釈」というものはないのでしょうが、これだけのことをいろいろ考えさせる歌詞構成は、やはり中島みゆきさんの言葉力って感じですね。