本好きの同僚におすすめされて、朝井リョウさんの「正欲」を読みました。
非常に読みごたえがあった本ですが、読了後に何かしっくりこないような違和感が…。
この「違和感」について考える形で、「正欲」を読んだ後の感想・考察をまとめてみます。
「正欲」読了後のしっくりこない感じとは?
「正欲」という小説のザックリした説明は、こんな感じです。
物語には「マイノリティを受け入れる世界に!」といったストレートなメッセージ性はなく、どの登場人物の視点に立つかによって、いろいろな読み方ができる複雑な構成になっています。
「誰でも楽しめる小説」ではありませんが読みごたえはあり、読んだ後にシンプルに考えはまとまりませんが、逆にいろいろと答えの出ない問題を考えさせられました。
「読んでよかった」というのが正直な感想だったのですが、読み終わったあとに、何か釈然としない気持ちが残りました。
本を閉じた後にしばらく考えて、その「釈然としない気持ち」を整理してみると、「あ!これだ」というポイントに思い当たりました。
「正欲」のメイン人物である性的マイノリティである佐々木佳道は、手記の中で多様性という言葉についてこのように斬りこみます。
これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる”自分と違う”にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉です。
確かに佳道は異性でも同性でもなく「水」を好むという、マイノリティの中のさらにマイノリティではあります。
ですが、この本を読んで佳道に対し「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたい」と感じた読者は果たしていただろうか…。ひっかかったことのひとつはココです。
佳道・夏月・大也は「マジでヤバイ奴」ではないのでは?
「正欲」のメイン登場人物には、佳道と同じように「水」を好む人々として、佐々木と偽装結婚する桐生夏月、大学生の諸橋大也が登場します。
大也も物語の後半で、佳道と同じニュアンスのセリフを口にします。「世の中の多様性を認めよう」という主旨のフェスを主催している、神戸八重子に向けて言い放ちます。
お前らが上機嫌でやってるのは、こういうことだよ
どんな人間だって自由に生きられる世界を!ただしマジでヤバイ奴は除く
しかし、少なくとも私の感覚では佳道も夏月も大也も、「マジでヤバイ奴」には含まれないし、「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたい」存在だと感じる人は少ないでしょう。
なぜか。
まず、対象物が水であれば、人間に危害は及ばないから。水は動物でも植物でもなく、むしろ「水に危害を及ぼす」という概念すら一般的には存在しません。
実際に3人とも、物語の中で一度も他者に大きな危害を及ぼしていません。
他者を全く傷つけずに生きることはおそらく誰にも無理です。彼らはインターネット上で水を使った動きをリクエストすることでYoutuberの子どもたちを利用しますが、子どもたちにはそのことで全く傷ついていません。この程度の他者利用は普通に社会に存在しているのではないかと。
その意味で3人は、少なくとも人間社会にとって、マジョリティである「人間好きの人々」以上に安全な存在です。
また、嗜好の対象があることが「水」であることも大きいです。
「水」は「キレイで清潔」というイメージを持つ人が多いでしょう。嗜好対象がたとえば同じ液体でも「血」であれば、だいぶイメージは違ったでしょうけど。
そのうえ、夏月は美人、大也はイケメンとして描かれます。見た目が美しくて性的にはかなりのマイノリティ、しかも他者には危害を与えない水好き…。むしろ嫌悪感より神秘性を感じる人が多いのでは。
佳道の外見については本書の中で記述がありません。少なくとも彼の手記を見ると非常に知性が高くて上品そうで、田吉のようなタイプには嫌われるかもしれませんが、一般的には嫌悪感を与える人物とは思えません。
要するにこの3人は、「自分はマイノリティOKの世界にも受け入れられない存在」と思い込んでいるだけで、たぶん世界はすんなり彼らを受け入れます。
「正欲」のキーワードのひとつ「繋がり」を今まで求めてこなかっただけで、求めれば「繋がり」を得られる3人でしょうし、「無敵の人」になり果てる可能性は低いでしょうね。
佳道と大也は逮捕されてしまいましたが、釈放後は本人たちがその気さえあれば、誰かと繋がる生き方はできるでしょうし、すでに佳道には夏月、大也には八重子がいます。
本当に嫌悪感を抱かせる登場人物とは?
では「正欲」には「直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたい」「マジでヤバイ奴」は出てこないのか?というと…直接的には出てきません。
ただし、間接的に名前と文字だけでは登場します。それがハンドルネーム古波瀬=実在の人物の名前は矢田部陽平です。
この矢田部の視点で書かれる章はひとつもなく、また、メインで登場する人物たちと現実世界での関わりがまったくないので、矢田部がどういう考えの持ち主で何者なのかは、断片的にしかわかりません。
断片的に語られる情報だけだと、矢田部は「マジでヤバイ奴」に該当します。
矢田部は24歳男性、小学校の非常勤講師、16歳少年と金銭の絡んだ性的関係を持つ、自宅に児童ポルノを大量に持つ、それ以上に残酷な画像やイラストも所持する…。
少なくとも彼は大也が「マジでヤバイ奴」の例として挙げた「小児愛者」で、しかも実際に犯行にまで及んでいます(同意あるなしではなく法律の範囲を超えているという意味で)。
佳道と大也は「マジでヤバイ奴」ではないのだけど、本書のキーワードのひとつである「繋がり」を求めた結果、「マジでヤバイ奴」=水愛好者以外の顔も持つ矢田部とつながってしまった。
三人は本当は水愛好者として集まったのだが、矢田部の持つ他の嗜好・小児愛者の方が世間的に知られているせいで、佳道と大也はとばっちりを受けた…「水が目的だったと言っても信じてもらえないだろう」と諦めている…物語の概要としてはこんな感じになりますね。
矢田部が物語に登場しない理由は何か?
物語の冒頭に、佳道、大也と矢田部の3人が逮捕されたという記事が出てくるため、私はどこかで矢田部も登場してくると思って読み進めました。
途中までは、寺井啓喜の章に出てくる右近が矢田部かな?という気もありましたが、この線は外れましたし、最後まで出てこなかったときには肩透かしを食らった気持ちがしました。
「正欲」読了後のしっくりこない違和感のもうひとつが、物語における矢田部の不在です。
矢田部がこの物語でどういう役割を果たしているか…というと、ひとつは佳道や大也に対し読者が同情しやすくなります。
佳道や大也は悪いことはしていないのに、矢田部の「もらい事故」として悲劇が起きた。
矢田部目線で物語が描かれることは一度もないため、読者にとって、矢田部は佳道や大也の人生を邪魔したモブの悪役に過ぎません。
「マジでヤバイ奴」の心の中が描かれないことで、「正欲」という小説は、それこそキレイな水のような雰囲気でまとまっています。
本書の言葉を使えば、「正欲」は矢田部に対して「線を引く」ことで成り立った物語といえます。
とはいえ、作者の意図はわかりかねますね…。
作品をキレイに仕上げるために、矢田部に対して線を引いたのか。
それとも「ここまではOK、本当にヤバイ奴はNG」という、多様性運動が避けられない線引き問題を、わざと物語全体で体現させてみたのか。
物語の最後には、水愛好家たちの元祖のような藤原悟が無差別事件を起こし、「無敵の人」とネットで呼ばれることになる末路が描かれます。
本当にヤバイ奴を社会が受け入れないことは、社会秩序を考えると仕方のないことです。しかし、本当にヤバイ奴が孤立して「無敵な人」が増えると、結局社会秩序は脅かされる…解決困難な問題です。
だから「繋がり」が必要になる。しかし「繋がり」が悲劇を呼ぶ場合もある…。こういった答えの出ない問題を考え続けるしかない…「正欲」はそんな物語なのかもしれません。
まとめ
というわけで「正欲」を読んだあとに考えたことを、スッキリさせてみました。
といっても、「ああ、こんな違和感だったんだな」とわかっただけで、本書がテーマにしている問題への答えは、全然私の中ではまとまりません。線引き問題…本当に難しいです。
なかなか向き合うことのない問いを投げかけてくれた物語。読んで良かったです。