長い間読みたいと思っていた、ジョージ・オーウェルの「1984年」をようやく読破しました。
非常に重い内容の小説でしたが…感想を書いてみます。
「1984年」のザックリとしたあらすじ
「1984年」は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表した小説です。
タイトル通り1984年の世界を描いていますが、1949年に発表しているので、35年後の世界を空想した未来小説です。
そしてよく言われるように、ディストピア小説の王道です。
「1984年」で描かれるディストピアは、全体主義の管理社会です。
人々は生活や思想を監視カメラによって四六時中監視され、一党独裁で政権を握る党から危険人物だと見なされると、逮捕され、存在を抹消されてしまいます。
存在を抹消されることは<蒸発>と呼ばれますが、ただ処刑されるだけではなく、生きていたという事実さえ無かったことにされるという徹底ぶりです。
なぜそんなことがまかり通るかというと、党は過去の出来事を自分たちに都合よく改ざんするシステムを作り上げているのです。
「典型的なディストピア小説」という印象を受けるかもしれませんが、「1984年」では全体主義の管理社会が細かく設定されていて、その一つ一つの設定が非常に興味深いです。
全体主義的な動きが世界で起こった時に、ベストセラーとして読まれる理由がわかります。
「1984年」のネタバレなしのザックリとした感想
で、実際に「1984年」は読んで面白いの?
…というシンプルな質問に、ネタバレなしでザックリとした感想を答えてみます。
実はこのような名作に対して言いづらいのですが、ぶっちゃけ小説としてはそれほど面白いとは感じなかったです。
私はオーウェルのもう一つの代表作「動物農場」も、期待ほどは面白く感じなかったので、オーウェル作品はあまり合わないのかもしれません。
「1984年」が、なぜ小説としては面白くなかったか…というと、登場人物にあまりリアリティがないからかなあ。
どの登場人物も「1984年」というディストピア世界を語るためのツールに見えてしまって、登場人物に感情移入できなかったせいか、あまり物語に入りこめませんでした。
ですが、小説としては楽しめなくても「読み物」としては面白かったというのが読後の感想です。
「1984年」に描かれるディストピア世界の背景設定は深い視点からよく練られていて、いろいろと考えさせられます。
全体主義の監視社会が訪れる未来は、あるかもしれないし、ないかもしれませんが、「1984年」が読者に投げかける警告を受け取っておくことは、大きな意味のあることだと感じました。
物語として面白いわけではありませんし、読んでいるとかなりイヤな気分になる描写もあります。
それでも一読の価値はある。そんな本です。
「ムダ」は世界に必要なんだ…
「1984年」を読んで感じたことはいろいろありすぎるのですが…ここでは「ムダ」というキーワードにまつわる感想に絞ってみます。
「1984年」に描かれる全体主義社会では、自由が徹底的に排除されます。
読書や芸術、スポーツなどの趣味の自由がないだけでなく、友だちや恋愛などの個人的な人づきあいも規律違反となります。
こんなささいな違反が、強制収容所行きとなる全体主義社会です。恐ろしいですね。
こういった規制は、人々から「情緒」を奪うことが目的だと思われます。
「情緒」の概念そのものをなくした人々は、現状に疑問を抱くことなく、独裁政府のプロバガンダを鵜呑みにしていきます。
人々から「情緒」を奪う道具のひとつが、「ニュースピーク」と呼ばれる新しい言語体系です。
「ニュースピーク」は単語の数をギリギリまで削り、必要最小限の事務的な意思疎通しかできない、まるで記号のような言語です。
「人間は名づけることによって世界を把握していく」という哲学がありますが、人間は名前のない概念を持つことができない、ということですね。
たとえば「自由」という言葉がなければ、人間は「自由」という概念を持つことが難しくなるということです。そうすれば「自由」を求めて、独裁政府を倒すことも難しくなる、と。
必要最小限で生きる人間は視野が狭くなる…このメッセージは考えさせられますね。
現代はムダを嫌う傾向が強い時代で、断捨離とかミニマリストなどという言葉も一定の支持を得ています。
しかし、ムダは多すぎてはいけないけど、ある程度のムダというのは人生に必要なのではないか…。
ここに来て私は、中学や高校で、一生使わないであろう数式や漢文の構文などを学んだ意義をようやく見出したわけですよ!
虚数も再読文字も私の人生に必要ないけど、私の人生に「ムダ」を与えて、視野を広げてくれていた!…のかもしれない!
う~ん、若いときに気づきたかったなあ!
反逆者を処刑する前に洗脳するという恐ろしさ
「1984年」で印象に残ったのは、体制に反抗して逮捕された人々の扱い方です。
「1984年」の全体主義社会では、規律違反した党員は射殺という極刑を受けます。
それは全体主義社会の設定として「いかにも」な設定なのですが、注目すべきは、処刑される前に徹底的な洗脳を施されることです。
どうせ死刑にする人間なのに、なぜ洗脳が必要なの?
…と、思いますよね。
読者だってそう思いますし、「1984年」の主人公で、規律違反で逮捕され拷問のような洗脳を受けるウィンストンも同じ疑問を抱きます。
その答えを、全体主義社会を司る中枢党員であるオブライエンが作中ではっきりと説明します。
誤った思想がこの世界のどこかに存在するということは、たとえそれが人目につかず、無力なものであるにしても、われわれには耐えがたいのだ。
全体主義から「人間個人の精神」すら逃げ切らせないという、恐ろしい考えです。
中島みゆきさんが「EAST ASIA」で「力だけで心まで縛れはしない」と歌いますが、オブライエンは「力で心も縛れる」と言いたいわけですね。
主人公ウィンストンは、
かれら(=全体主義社会を統括している党)を憎みながら死ぬこと。それが自由だ。
と、命を奪われても心だけは奪われないことを心の奥底で誓っています。
しかし残酷極まりない拷問や、薬物や電気ショック的なものを用いた洗脳によって、最終的には心から党に心酔するようになってしまうのです。
そして、物語はそこで終わります。ウィンストンの処刑へと続くことが想像できる終わり方です。
「1984年」にはドンデン返し要素がある!?
「ウィンストンが洗脳されて終わり」というラストで、「1984年」はバッドエンド、ひどく後味の悪い小説のように感じます。
「全体主義は人間個人の精神まで支配できる」という考えが勝利した…一見、そういう風に感じられます。
ですが「1984年」がすごいのは、最後に「ニュースピークの諸原理」というアカデミックな論文が「附録」としてついていることなんですよね~。
この「附録」は、「1984年」の物語の後に書かれた形になっていて、ニュースピーク(「1984年」の全体主義社会で採用された言語)について、過去形で書かれています。
過去形で書かれている…つまりこの「附録」は、現代日本人が江戸時代に使われていた古語を考察しているみたいな雰囲気なのです。
それが何を意味するかというと、物語の最後にこの「附録」をつけることで、「1984年」に描かれた全体主義社会は何らかの形で消滅したことを読者に対して匂わせているんです!
すごい高度な手法ですね!
「1984年」に描かれた全体主義はなぜ崩壊したのか。
その答えのひとつとして考えられるのは、やはり「洗脳してから処刑する」という壮大なムダですね。
ウィンストンの拷問・洗脳は読んでいると気分が悪くなる凄まじさですが、拷問・洗脳している側も、相当な時間とエネルギーを費やします。おそらくコストも相当かかっています。
「1984年」の内容は一見、「人間の精神は自由ではない。どんな人間でも洗脳可能である」という暗いメッセージに見えます。
しかし、あれほどのエネルギーを費やして一人の人間を洗脳するというコストに耐えうる社会体制など存在しないのでしょう。
最後の「附録」を読むと、「全体主義の人間精神への勝利」で終わったはずの物語が、「人間精神の全体主義への勝利」へとひっくり返るんですよね。
「1984年」ってある意味ドンデン返し小説なのね…。やっぱり奥が深い…。
まとめ
「洗脳してから処刑する」という壮大なムダは、どれほど徹底した管理体制の全体主義社会でも、人間が作り出した体制であるからこそ生まれたのでしょう。
世界を自分たちの思想で完璧に覆いたいという、人間特有のロマンが生み出したムダなのかな、と。
もし、このムダが人間にそぐわない社会体制を崩壊させたのだとすると、「ムダのあるところに人間らしさはある」とか、「ムダは実はムダではない」なんて思っちゃいます。
現代社会もムダをなくし効率化を求める傾向が強いように感じますが、効率化もほどほどに…そんなことを考えさせられた「1984年」でした。
読むと気分が重くなるシーンが多い「1984年」ですが、一生のうちでいつかは読むことをおすすめしたい本です。