中島みゆきさんの「トーキョー迷子」の歌詞を考えてみます。
「トーキョー迷子」について
「トーキョー迷子」は中島みゆきさんが1991年にシングル発売した曲です。
同じ年に発売されたアルバム『歌でしか言えない」にも収録され、3曲目に入っています。
中島みゆきさんの歌でシングル発売される歌は、コアなみゆきファンだけでなく、比較的一般受けしやすい曲が多いです。
「トーキョー迷子」も、中島みゆきさんの歌をそれほど聴かない母が「この歌はいいね~。カラオケで歌えるように覚えようかな?」と言っていました。
確かに「トーキョー迷子」は軽快なテンポ、なじみやすい曲調、そこそこわかりやすい恋愛がテーマ…と、一般受けしそうな要素はそろっています。
ですが1990年代のJ-POPは、ドラマやテレビで主題歌に使われた歌が売れるという傾向があり、だいたい同時期に出した「浅い眠り」や「空と君のあいだに」といったシングルほどは知名度は高くありません。
中島みゆきさんの初期作品「わかれうた」や「ひとり上手」を彷彿させるような、ちょっと懐メロっぽい雰囲気が、バンド系の歌がよく売れていた1990年代にはあまり受けなかったというのもあるかもしれないです。
当時大ヒットまではしなかったとはいえ、ファンには人気のある名曲で、中島みゆきさんのベストアルバムにも収録されています。
「トーキョー迷子」の歌のテーマは?
「トーキョー迷子」の歌詞全体は、Uta-Netでご覧ください。
「トーキョー迷子」は、全体としては何を歌っているのかわかりやすい歌です。
おそらくテーマは待ち人来たらず。
ここで待っておいで すぐ戻ってくるよ
言われたようにそのままでここにいるのに
思い出はひいき あいつだけひいき
いいところだけ思い出す それほどひいき
「戻ってくる」という言葉を置いて去っていった恋人を待つが、恋人は戻ってこない。
思い出の中にしかいない恋人を想えば想うほど、長所ばかりが思い出されて愛情が募っていく…そんな感じですね。
「トーキョー迷子」の主人公は地方出身?
「トーキョー迷子」の主人公は、「地方から東京へ出てきた女性」というのが定説です。
誰に言われたわけでもなく、私もずっとそう思っています。
歌詞の中には、主人公が地方出身であることが明確に描かれていないのに、なぜそのような定説があるのかというと、やはりタイトルにある「迷子」という言葉が大きいでしょうね。
私は九州の出身で、出身市町村は県庁所在地ではありますが、東京のように電車や地下鉄が縦横無尽に走ってはいません。
地方から東京に出てきた人が一番苦労するのが、電車路線の複雑さだと言います。
私はほんのちょっぴり鉄子のケがあるため、東京の複雑な路線図に心躍らせたタイプなので例外ですね。
「トーキョー迷子」=東京で迷子になっている人=地方から東京に出てきて公共交通機関の複雑さに戸惑っている人…という連想が容易なので、「トーキョー迷子」の主人公は地方出身だとイメージされるのでしょう。
また、地方と東京の大きな違いといえば、人口の多さです。段違いです。
私の地元だと、中学や高校を卒業した後、特別連絡を取っていない人にバッタリ出会うということは珍しくありません。
しかし東京だと、連絡を取っていない人に偶然に街角で再会するという体験はマレです。
東京のように人が多い町では…
5年かければ人は貌だちも変わる
5年後に偶然すれ違ったとしても、5年かけて変化した容貌では、人ごみのなかでお互いに見分けることができず再会を果たせないのでしょう。
地方だと偶然の再会に希望を持てるけれど東京では期待できない。
地方出身者のそんな絶望を歌っているように感じます。
「トーキョー迷子」の解釈が難しい歌詞
「トーキョー迷子」のテーマは
地方から東京に出てきた女性が昔の恋人を待ち続けるが、都会の生活の中で次第に希望を失い、「迷子」になったような心境をつづった歌。
…と、わかりやすいのですが、「トーキョー迷子」の歌詞にはいくつか解釈が難しいフレーズが出てきます。
「トーキョー迷子」のAメロはわかりやすい歌詞がつづられますが、スンナリと解釈できないのはBメロ以降です。
1年2年は夢で、3年4年は洒落?
1年2年は夢のうち まさかと笑って待てば
3年4年は洒落のうち 数えて待てば
語呂もテンポもよく、何となく聞き流してしまいますが、よく聞くと意味深なことを言っているのがBメロ。
「トーキョー迷子」の歌詞全体の意味を考えて、言葉を補足して解釈すると
「必ず戻る」という言葉を残して去った恋人を待ち始めて、最初の1~2年は夢のようにぼんやりと過ぎていった。「まさか戻ってこないことなどないだろう」と笑っていた。
ここまではわかりますね。
難しいのが次の「3年4年は洒落のうち」。
ここでの「洒落」が、もし「ダジャレ」の意味で使われているとすると、「トーキョー迷子」と同じアルバムに入っている「笑ってよエンジェル」の歌詞の一部が頭に浮かびます。
さよなら三角 また来て四角
こんど会う時はなおさら深く
「笑ってよエンジェル」では「角(かく)」で韻を踏んでいますが、「トーキョー迷子」では、さんねんよねん…で、「サヨナラ」を暗示しているのかなあ…。
ちょっと難しいですね。
そのあとの「数えて待てば」は、「もうどのくらい待ったかな?あとどのくらいで帰ってくるかな?」というくらいの意味合いで、次の「5年」で始まるフレーズへと続いていくのでしょうけどね。
ましてや男ましてや他人…だから何なのか?
3年4年を数えて待った後の歌詞はこうです。
5年かければ人は貌だちも変わる
ましてや男ましてや他人 今日もトーキョー迷子
5年の歳月を経ると、人間の見た目は変わってしまう。
わざわざ「貌」という漢字を当てていることから、年齢とともに美しさが衰えていくという意味も込められています。
ここまではわかるのですが、そのあとの「ましてや男ましてや他人」。男や他人だったらどうだというの?
「ましてや」という副詞は
Aでさえ〇〇なのにましてやBが〇〇であることは言うまでもない
<例文>先生でさえ解けない問題をましてや生徒の私が解けるはずがない
こんな使われ方をする言葉です。
そう考えると、おそらくこの歌詞では「女」が省略されています。主人公が女性であることを考えると…
女である私でさえ××なのに、ましてや男であるあなたは××だろうし、その上にあなたと私は他人なのだからなおさら××だろう。
…こんな形のことを言っているのだと推察されます。
では「××」に当てはまるのはどんな内容か?
直前の「5年かければ~」の歌詞を考えると、「容姿が変化すること」が入りそうですが、それだと「他人」との整合性が取れません。
ここは…「容姿が変わって相手を見つけられなくなること」と考えれば、ある程度意味が通るように思います。
…こんな感じで解釈できますかね?
あとは「ましてや他人」には、「私たちは運命の相手ではなかった」という響きも帯びているよう思います。
「あいつ」は私の前では名前も素性も偽装していて、現在はまったくの別人=他人という意味にも取れなくないですが、それはちょっと深読みしすぎかもしれません。
まとめ
中島みゆきさんの「トーキョー迷子」の歌詞解釈・考察でした。
中島みゆきさんの歌のテーマは幅広く、曲調もさまざまですが、「トーキョー迷子」はテーマも曲調も「いかにも中島みゆきのイメージ!」という気がします。
明るいテーマの歌ではないのに、聴くとなぜか元気が出てくる不思議な楽曲です。