私は、手塚治虫作品が好きで、特に「火の鳥」は大好きです。
その影響で、「AIが意識を持つのか?」とか「人間の意識は機械に移植できるのか?」とかいう話には多大な興味があります。
「脳の意識 機械の意識」という本を見つけたので、難しそうでしたが、挑戦してみました。
まずは本の感想をザックリと…
「脳の意識 機械の意識」は、中公新書というレーベルから出ています。
「脳神経科学の挑戦」というのがサブタイトルになっていて、
難しそう…
と、ちょっと及び腰になりましたが、「新書本なので、何とか理解できるだろう!」と、読んでみました。
ですが!私の勉強不足、理解力不足もあるのですが、ひっじょーに難しかったです!!!
完読するのに3週間かかりましたが、それでも理解できたのは、内容の半分くらいかなという感じです。
この本を読む前に、もっとかんたんに書かれた、脳のしくみの入門書を読んでおけばよかったと思いました。
全体としては非常におもしろかったので、かんたんな入門書を1冊読んでから、もう一度チャレンジしてみようと思っています!
私が理解できた範囲で、「へえ~!」と思ったことを、忘備録として箇条書きに残しておきます。
一番気になったのは「意識は機械に移植できるか」問題
さて、「脳の意識 機械の意識」は、上述のように非常に難しかったのですが、筆者さんの主張、考え自体はわかりました。
難しかったのは、「作者さんはなぜそのように考えるのか?」の「なぜ」の部分でした。脳やニューロンの図で丁寧に説明されているのですが、私の勉強不足でわからない部分がありました…
で、筆者の方は、まだまだ先のことではありますが、将来的に人間の意識は、機械に移植できると考えていらっしゃいます。
ここで私が「ん?」と思ったのは、
「意識を機械にうつすことができた」ということは、どうやって証明できるの?
ということです。
科学者が「人間の意識を機械に移植できました!」と言ったところで、本当に移植できたかどうかを、どうやって確認することができるのでしょうか。
もちろん、外部の人間が確認することは、理論上不可能でしょう。
実際に意識を移植した張本人のみが、「できたよ!」と言えることになります。
筆者さんはこの問いに対して、
これら広義の記憶〔記憶だけでなく性向などのアイデンティティも含む〕を、機械側に少しでも移してあげることができたならば、私がその中でめざめたとき、自身が何者なのかと、とまどうことはないだろう。
(『脳の意識 機械の意識』p305より)
と答えています。
かんたんに言えば、記憶を保持していれば、意識の移植が成功したかどうかの証明になるということになります。
しかし、しかしですよ…。
「たった今の私」と、まったく同じ物体を、精巧なコピーとして作ることができると仮定するならば、そのコピーは、私の記憶も性向も保持しているはずです。
このコピーは、私と意識は共有してはおらず、独立した意識を持つと考えるのが自然です。
そうすると、このコピーさんは、私の記憶と性向はバッチリ持っていて、私の意識…アイデンティティではなく意識そのものは持っていない、ということになります。
つまり、記憶と性向を保持することは、私の意識が保持されていることの証明にはならないのでは?と思うのです。
遠い(もしかしてそんなに遠くない?)未来に、永遠の生に近いものを求めて、ある人…ここでは例えとして、「火の鳥」に登場するロックが、自分の意識を機械に移植したとしましょう。
移植された機械は、ロックの記憶を持ち、ロックらしい性格をしているとしても、実はもともとのロックの意識は、移植された時点で途切れて、終わってしまっているのではないか。
ロックの記憶と性格が移植された機械は「オレがロックだ」と言い、人間だった時代からの意識が連続していると思い込んでいるけれども、実は、ロックの意識は死んでいて、自分がロックだと思い込んでいる機械が残っているだけなのではないか。
しかし、こう考えると、人間は眠って目覚めるたびに、昨日の自分(の意識)は、実は死んでいたりして…ということにまで考えが及んでしまいますね…。
昨日の私はもう死んでいて、今日の私は単に昨日までの記憶を保持しているだけとか…。
何だか怖くなってきますね~。私が考えすぎといえばそれまでなんですけど!
それにしても、機械に意識が移植できる時代が到来したら、「私はどうするだろうな?」とぼんやりと考えてしまいます。
機械も物体である以上、いつか限界が来ます。永遠の生に近いかもしれませんが、おそらく永遠ではありません。
「必ずいつか終わる自分」をどう終わらせるのか。
日々向き合えるテーマではないので、このようなことを考えるきっかけをくれた本書に感謝です。