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高校野球の球数制限導入が選手ファーストに思えない理由

高校野球
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ついに、高校野球で球数制限のルール化が導入されました。

高校野球界の各監督さんたちの意見を並べたこの記事は興味深いですね→「投手1人では勝てない時代」球数制限に各監督反応

私は球数制限の「ルール化」には反対の立場です。

リンク先で興南の我喜屋監督がおっしゃっているように、各チームで選手を把握し、個々に対策すればいいだけの話だと考えます。

球数制限のルール化そのものに対する意見は、別の記事で書きました。

そこで、今回はちょっと違う視点から思うところを書いてみます。

「球数制限導入は本当に高校野球の現場やプレーする選手たちを尊重した結果なのか?」ということです。

球数制限は高校野球の現場が望んだことではないのでは?

まず思ったのが、

球数制限がルール化されることを望んだのは誰?

…ということです。

上にリンクした日刊スポーツの監督さんたちの意見に、「球数制限ルール化を待ってました!」という歓迎するコメントが少ないように、少なくとも現場の指導者からの要請ではないですね。

では、実際にプレーしている選手たちが望んでいるのか?

現在の高校野球の投手たちの試合後のコメントを見ると「最後まで投げたかった」「自分が先発したかった」など、どちらかというと「投げたい」モードの方が強く感じられます(本音はわかりませんが)。

では、なぜ球数制限のルール化は行われたのか。

理由は2つ考えられます。

高校野球に対し異様にヒステリックな世論と、オリンピックに向けての野球ルールの国際化、この2つの影響ではないでしょうか。

ヒステリックな世論と野球の国際化はタグを組んでいる?

私のように20年近く高校野球を見ているファンは、最近の高校野球にまつわるヒステリックな世論に違和感を感じている人が多いと思います。

「長い延長戦はダメ」「投手を投げさせすぎるな」「トーナメント式はやめろ」「坊主頭もよくない」「真夏に大会をするな」…。

確かに正当な批判もありますが…ぶっちゃけ私はこう思っちゃうことがあります。

そんなに嫌なら高校野球を見るのをやめればいいのに…。高校生は(多くは)野球をやることを強制されているわけじゃなくて、自分で選んで野球部に入っているのに…。

高校野球はアマチュアの学生が、空き時間に行っている部活動なので、日程がタイトなのは仕方がない部分があります。

これは高校野球に限らず、高校の部活は全てそうです。むしろ、高校野球以上に日程がハードな競技の方が多いです。

もちろん高校野球にも改善できる点はありますが、それにしても「関係ない人(=現場で高校野球をやっているわけではない人)」が、ここまで口を出してくるのはどうして?

…それは、マスコミの力でしょうね。

高校野球の問題点があると必要以上に大きく取り上げて、高校野球をよく知らない層に「高校野球ではこんなに選手が酷使されている」と叩き込みます。

それでマスコミに何の得があるかというと…オリンピックに向けて、野球の国際ルールを高校野球に押し付けようとしているのではないか…そんな気がしてなりません。

ちなみに球数制限ではよく「アメリカでは〇球」とか言われますが、私にはアメリカがスポーツ選手の健康を第一に考える文化だなんて思えません。

アスリートのコンディションよりテレビ放映の都合で、オリンピックの時期や時間帯が決められていることを考えると、アメリカでの青少年の球数制限はMLBの都合という側面が強いのでは?と思ってしまいます。

そもそもスポーツとは愚行権の行使なのでは?

さて。ちょっと書きたい放題書いてしまいましたが…。

私は実は「球数制限」自体は必要だと思っています。ですが、それがルール化されることに反対なのです。

上まで野球を続けたくて、一般的な感覚を持った投手なら「高校時代に過度には投げたくない」と思っているでしょう。

そのような投手は、指導者と話し合って「自分の投球数はここまで」という限界値を設けておくべきです。

ですが、投手の中にはエキセントリックなタイプもいて、「投げたい時に投げたいだけ投げる!」という価値観を持っている投手もいるかもしれません。

投手の肩は消耗品というのが事実なら「投げたいだけ投げる」のは愚かな行為ですが、それが純粋に本人の意志ならば、「人に迷惑をかけないという条件で、愚かに見える行為をしてもよい権利」…愚行権として認められる自由ですね。

というか、スポーツとはそもそも愚行権の行使なのではないか?と私は思います。

42㎞以上走るマラソンも、タックルされて倒れると痛いラグビーも、試合中のケガのリスクが高い柔道も、レシーブは腕も床と摩擦する足も痛いバレーも、危険極まりないスノボーのハーフパイプも…全部愚かに見える行為だけど、自分の意志で行っていることです。

スポーツがなぜはるか古代から人気があるかというと、愚行権を行使する勇敢さ…人間が本能的にこういうものに惹かれる傾向があるのではないでしょうか。

もちろん、スポーツにおいてなるべくリスクを排除できるように、たとえばラグビーでは首へのタックルは禁止とか、マラソンでは途中で給水するとか、そういう工夫は必要でしょう。野球でも打席でヘルメットをかぶりますね。

ですが、球数制限は…他人が強制しなければならないほどの案件ですかね?

私には球数制限は、スポーツにおいて過度なルールに思えてなりません。

念のため書いておきますが、「投手は感動のドラマを作るために投げ続けろ!」なんて言うつもりは毛頭ないです。

「投げる」にしろ「投げない」にしろ、たとえそれが愚行権であっても、当事者の意志が尊重されるべきだと思うだけです。

その意味で、物議を醸した大船渡の投手起用を支持します。甲子園を諦めるような行為に外からは見えるかもしれませんが、それも愚行権であり、外部の人間がどうこう言うことではないと考えます。

スポーツがゲーム化していくような…

今回の球数制限導入は、どうにも選手ファーストではない…現場の声が反映されていない気がしたので、書いた記事でした。

さて、球数制限導入とセットで、球数が極力少なくて済むように申告敬遠も採用されましたね。

これにはガッカリです。球数制限ルール化以上に、申告敬遠は反対でした。

「敬遠」と言えばボール球4つ投げたことになるなんて…これはスポーツじゃなくてゲームですよ。

皮肉なようですが、こうやって高校野球がどんどんつまらなくなって人気が低下し、注目度が下がり、ヒステリックな世論の標的にならなくなれば、高校野球はある程度もとの姿を取り戻せるようになるかもしれませんね。

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