火の鳥シリーズ再読中!
今回は火の鳥5巻目にあたる「鳳凰編」の感想です!
火の鳥・鳳凰編はどんなお話?
「火の鳥・鳳凰編」は、火の鳥シリーズの5巻目に当たります。
火の鳥は奇数巻が過去→現在という順番で話が進み、偶数巻が末来→現在という順番で時間が戻っていきます。
5巻目の鳳凰編は3番目に古いお話で、時系列がひとつ前の3巻・ヤマト編に登場した人物の名前が登場します。
鳳凰編の舞台は奈良時代。東大寺の大仏が作られた天平文化あたりのお話です。
描かれるテーマは多彩ですが、他の火の鳥シリーズとくらべて強調されているテーマは、「権力と宗教・芸術の結びつき」ですかね。
権力側の人間として、吉備真備、橘諸兄、藤原仲麻呂…といった、高校日本史で名前を覚える為政者が登場します。
私は高校時代に火の鳥を初めて読んで、日本史の学習にすごく役立ちました!
ここらへんの権力者は、誰が悪役ってわけでもないのですが、全員、日本史で習った時のイメージと遠くなかったのが面白かったです。
鳳凰編は、「火の鳥シリーズの中でも特に完成度が高い最高傑作」との呼び声が高い作品です。
火の鳥はどのお話も深くて読み応えじゅうぶんなのですが、確かに鳳凰編は、長編でも飽きさせない物語展開、登場人物の魅力、国家仏教の描き方…などが、全体として調和した雰囲気は感じます。
たとえば私は未来編が一番好きなんですが、未来編は登場人物が少ないため、人によってはストーリーとして面白くないと感じる人がいるかもしれません。
火の鳥シリーズの人気投票でもしたら、鳳凰編は1位になる最有力候補かもと思います。
速魚…小さな命の慈しみが我王の救い
鳳凰編は、登場する二人の重要な女性人物、速魚とブチが印象的な役割を果たします。
鳳凰編を最初に読んだ時、速魚が死んでテントウムシになったシーンは「え?何?」と、よくわかりませんでした。
「我王がテントウムシを助けたシーンなんかあったっけ…?」と読み直してみると、最初の最初に我王が生まれ故郷の村から逃げ出す場面で、花畑で腕の上にいたテントウムシをそっと花の上に置く姿が描かれていました。
セリフも何もないから見逃してしまっていた場面でした。
不幸な生い立ちから、人間を憎み、人を殺すことを何とも思わなくなった我王がテントウムシを助けるシーンは、我王が憎しみから人間を憎んでいるだけで、命そのものを粗末に考えているわけではないことが読み取れます。
速魚が女性の姿で我王に連れ添うことができたのは、我王のギリギリ救える部分を見た神のような超越的な力(もしかしたら火の鳥?)が、テントウムシに力添えしたのかもしれませんね。
さて、「罪人我王が虫の命は大切にする」というエピソードは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出させます。
我王も「蜘蛛の糸」の結末と同じように、救いの糸を自ら断ってしまうわけですが、我王の物語はここで終わらず、速魚をなくしたことで我王の心に大きな変化が表れ始めます。
速魚は命をかけて、我王に人間性を与えた…そんな感じがします。
ブチ…不良少女の権力への一言は強烈
鳳凰編の我王にとってのヒロインが速魚なら、茜丸側のヒロインはブチ。
ブチはしっとりとして控えめな速魚と対照的に、本人の言葉を借りると「にても焼いても食えないアバズレ」です。
茜丸に出会った後のブチは、不良少女が矯正されていくような感じで微笑ましく感じます。
しかし不良少女という者は、時に人生をよく知っていることがあって、矯正したあとのブチにもそれが表れています。
ブチは権力に取り込まれ、大仏事業のプロデューサーとなった茜丸にこう言い放ちます。
こんなもん(大仏)作ったってひでりは終わりゃしないんだよ!
奈良の大仏は、現在でも日本有数の観光名所ですが、国家的大事業の完成の裏には、身分が低い労働者たちの過剰な労働や犠牲があった可能性は考えられます。
奈良の大仏が作られたころは実際に天災や疫病が多かったらしく、時の聖武天皇はそれを鎮めるために大仏事業をはじめたとも言われます。
ブチのセリフは手厳しい…けど、現実的ですよね。
国家的災難に対し「見栄えのする政策」ばかりを取り、実際に効果的な対策を取らない…というのは、現代でも感じることがあります。
茜丸が権力側に近くなることで、茜丸とブチの距離は離れてしまいますが、お互いに最後まで愛情を持ち続けていることは、悲劇性の強い鳳凰編を少し救われる物語にしていますね。
さて、茜丸はブチをモデルに観音像を彫るのですが…この観音像、東洋のミューズと呼ばれる秋篠寺の伎芸天像に似ていますよね。
技芸天像、一度見てみたいなあ…。
我王と茜丸の反対方向に転がる運命
ここまで鳳凰編の二人のヒロイン、速魚とブチにまつわるエピソードを見てきました。
速魚が我王によって救われるのと同じように、ブチは茜丸に命を救われます。
しかし、その後の展開は反対で、速魚は我王に人間の心を植え付けますが、ブチは茜丸のやさしさを持ち合わせた気丈さに触れることで、ブチの方が人間らしく成長していきます。
思えば我王と茜丸の物語は、反対方向のベクトルに進んでいきますね。
清らかな仏師だった茜丸は権力に近づくことで打算的な性格になり、芸術を追求する力が失われていきます。
逆に凶悪犯罪者だった我王は、速魚、良弁上人などと行動を共にする中で、豊かな人間性を持つようになり、芸術性は研ぎ澄まされていきます。
しかし、茜丸は物語の悪役とはまったく感じません。
茜丸が右腕に致命傷を負わせた我王をあっさり許したり、権力者・橘諸兄に意見するシーンには、心を洗われるような気がします。
茜丸の心が暗転していくのは…もうどこか因縁の相手・我王と、反対に人生が進んでいく運命としか思えません。
もちろん茜丸にもう少し何らかの力…外からでも内からでも…があれば、その運命に抗えたのかもしれませんが、何となくどうしようもなかったような…そんな気もします。
イケメンの茜丸に私は甘いですかね!?
ユーミンの「翳りゆく部屋」という歌に、愛が終わったのはどちらが悪いのでもなく、運命だったのだ…という感じの歌詞がありますが、そんな感じかなあ。
火の鳥では運命を自分で切り開いていく強い命の姿が描かれる一方で、茜丸のように運命に飲み込まれていく人生も描かれます。
切ないけど、人生にはそういう側面もある…そこらへんが、鳳凰編の人気の秘密なのかなあとも感じます。
まとめに変えて…権力と芸術の関係
「火の鳥・鳳凰編」の感想でした。
国家権力と宗教・芸術の結びつき…鳳凰編を読むと、奈良の東大寺の大仏を見る目が変わってしまいますね。
ですが日本に限らず、世界中のスケールの大きい芸術の多くは、国家権力・宗教によって制作がバックアップされています。
そう考えると、権力や宗教が芸術を利用することは必ずしも悪いことなのか…ある程度ウィンウィンの関係なのか…難しい所です。
私見ですが、人類の歴史の中で、「芸術は既にピークを迎えてしまったのではないか?」という気がしています。
「古いものは良く見える」だけかもしれませんが、現代アート的なものより、古い時代の作品の方が絵画も彫刻も建築も、美しさを感じるんですよね…。
現代では貧富の差はあるとはいっても、歴史的なスケールで見ると富は一極集中しなくなってきています。
芸術の大偉業を支えるほど富を集める個人は、もう現れないのではないか…。
現代の芸術家はパトロンなしに、自分が生活していくことを考えながら制作を続けるので、生命の全てをかけたような作品は生まれにくくなっているのではないか…。
しかし、驚異的な芸術作品の誕生を手放してでも、やはり芸術は、そして人間は、自由である方が幸せなのかもしれない。
おそらく歴史には残らない我王の作品を見ながら、いろいろ考えてしまいました。
火の鳥シリーズは巻数が多いので電子書籍で読むのもおすすめ!電子書籍だとカラー版もあります。