火の鳥シリーズ再読中!
今回は11巻目の「異形編」です。
火の鳥シリーズのなかでも特に好きな物語です!
「火の鳥・異形編」はいつの時代を描いている?
「火の鳥・異形編」は、火の鳥シリーズの11巻目です。
火の鳥シリーズでは奇数巻が過去の物語となり、異形編は過去から数えて6番目のお話。
異形編は室町時代末期の応仁の乱(15世紀)くらいのお話で、過去を描いた火の鳥シリーズの中では最も現代に近い時代です。
室町時代で火の鳥版日本史が終了するのはあまりに早すぎるので、
本当はこの後に江戸時代とか明治時代を描くプランがあったんじゃないかなあ…
と感じます。
「火の鳥・異形編」のかんたんなあらすじ
「火の鳥・異形編」はあまり長いお話ではなく、角川文庫版ではヤマト編と同じ巻に収録されています。
主要な登場人物が主人公の左近介(さこんのすけ)、八百比丘尼(はっぴゃくびくに)、八儀家正(左近介の父)、可平のたった4人というのも、異形編の特徴です。
主人公の左近介は男装の麗人です。これだけで女性読者からは人気を博しそうですが、勇気と責任、優しさも持ち合わせた人格者です。
父の八儀家正は、左近介の父親とは思えないような残虐な性格の持ち主です。
八儀家正は重い鼻の病気にかかりますが(ピンとくるかもしれませんが、八儀家正は猿田彦の系譜に連なる容姿です)、それを八百比丘尼という霊験あらたかな尼が治す約束をします。
左近介は「父が生き延びるとまた父の犠牲となる人々が出てくる」と考え、八百比丘尼を斬る決意をします。
「父の方を殺せばよいのではないか?」と思いますが、左近介いわく父はスキをみせないし、父の前では自分が体がすくんでしまうという…。
残忍な父の犠牲者がこれ以上出ないため…要するに「世界のために誰かを犠牲にすることは許されるのか」…火の鳥版「罪と罰」という感じで物語は進みます。
なぜ左近介は脱出しなかった?
八百比丘尼を斬りに蓬莱寺へ来た左近介は、殺害後にどうしても蓬莱寺を脱出できなくなり、場に閉じ込められてしまいます。
八百比丘尼の霊験を拝みに近隣の住民がやってきますが、八百比丘尼の殺害を隠すために八百比丘尼になりすます左近介。
そして時間は30年逆戻りし、そのうち新しい左近介が生まれ、一代前の左近介が演じている八百比丘尼を殺しに来る…。
おそらくここから、また新しい左近介が八百比丘尼を演じ、時間は戻り、次の左近介に殺される…という無限ループが続くのでしょう。恐ろしい…。
異形編は火の鳥シリーズの中で一番怖い物語かも…。
ですが八百比丘尼となった左近介には、このループから脱出するチャンスが1日だけ与えられます。
それは、八百比丘尼が新しい左近介の父に呼ばれ、診察に出かける雨の日です。
この日だけは特別に蓬莱寺の外へ脱出できるのです。
異形編では、この日に可平だけが蓬莱寺を脱出しますが、左近介は「鳥(火の鳥)との約束だから」と言って、寺に残ります。
このシーン…「左近介は何で可平と逃げなかったんだろう?」と思いますよね。
もちろん逃げようと思えば逃げることはできたでしょう。
しかし、左近介(八百比丘尼)は、新しい左近介が八百比丘尼を殺すことを思いとどまることでこのループを脱出しようとしているのでしょう。
八百比丘尼となった左近介は人間から怪物まで、ケガをした生き物を際限なく治し続けることで、自らの罪を贖おうとします。
火の鳥は八百比丘尼となった左近介との対話で、
もし罪が消えていればその機会(=外に開かれる日)にそとの世界にのがれることができよう
と言います。
必ず外に開かれる日はやってくるのに、「罪が消えていれば外の世界に出られる」という言い方はおかしいですよね。
要するに、左近介の贖罪が完了したかどうかは、新しい左近介が八百比丘尼を斬るのを思いとどまるかどうかで判断できるということではないでしょうか。
新しい左近介が八百比丘尼を斬らなければ、八百比丘尼は天寿を全うし、新しい左近介は別の人生を生き、ループからの脱出完了です。
もちろん八百比丘尼が新しい左近介が来る前に寺から逃げるという形でも、ループからの脱出は成功するでしょう。
ですが、八百比丘尼は自らの罪を贖うため、許される(=新しい左近介が八百比丘尼を殺さない)までは、この運命の中で無限に傷ついた生き物を治し続けるべきだと考えている。
それが「鳥との約束」ということなのでしょうね。
「異形」編の意味は?
さて、この物語は「異形編」というサブタイトルがついています。
なぜ異形編なのかというと、八百比丘尼に治療を受けに来る生き物たちの中に、異形のものたちがたくさん混ざっているからでしょう。
この「異形の者たち」に関して、異形編ではおもしろい記述があります。
はじめは普通の人間が、異形の姿に見えているのです。
戦国乱世は人びとを虫けらのように殺しふみにじって何の容赦もなかった。(八百比丘尼の治療を受けにくる人々の)なかには妖怪のように顔がくずれ、悪霊のようにやけただれた姿もまじっていた。
戦乱の世で大ケガや大やけどを負った人々の姿が、まるで物の怪のように見えたのです。
そして、途中から本物の化け物が傷を治してもらいにやってきますが、この描き方から読み取れるのは、異形編に出てくる人間と化け物に境目はほとんどないということです。
八百比丘尼も、「鬼が来た!」と騒ぐ可平に対し
鬼か人かどうして見分けるのだ。(中略)苦しさとうらみが強ければ、人も鬼に見えることもあろう
と諭します。
戦乱の世は人の身体も心もすさませ、人間と怪物の区別がつかなくなっていく…というのは非常に興味深い記述です。
そして、その中で人間と怪物の分け隔てなく、誰でも治す八百比丘尼の信念。
ただし、「傷が治ったらまた戦で人を殺す」と豪語した戦国武将だけは治してもらえません。
火の鳥シリーズで描かれるメッセージのひとつが、反戦であることを思わされるエピソードです。
まとめに変えて…やはりデスノートは許されないのか?
火の鳥・異形編の感想でした。
異形編で描かれるストーリーの中には、私の中で結論が出ない問いが含まれます。
左近介は、残忍な父の犠牲者をこれ以上出さないために八百比丘尼を斬ります。
しかし、このことは許されない罪として、左近介は永遠に自分に斬られ続けるループに閉じ込められてしまいます。
世界を良くしていくための殺人…これはやはり許されないのでしょうかね?
ドフトエフスキーの「罪と罰」のテーマですが、数年前の人気漫画デスノートも、キラは世界に有害である人間をデスノートを使って消そうとしますね。
デスノートの中でも、キラを支持する人たちがいることが描かれます。
私はキャラとしてはライトよりエル派ですが…。
異形編では、左近介が八百比丘尼ではなく悪の根源である父を斬れば、このような罰を受けなかった可能性はあるかもしれません。
ですが、正義心から誰かの命を奪うことは許されるのか…というのは非常に重い問いです。
それによって世界を救っても、殺したことの罪自体は帳消しにならないのか…。
難しい…。
異形編を読むたびに私の中に沸き上がってくる問いで、そしていまだに結論は出せていません。
火の鳥シリーズは巻数が多いので電子書籍で読むのもおすすめです。