火の鳥シリーズを順番に再読中です。
今回は10巻目の生命編です!
「火の鳥・生命編」はどんなお話?
「火の鳥・生命編」は火の鳥の10巻目。
火の鳥シリーズでは偶数が未来のお話で、未来の話は巻が進むと現在に近くなっていき、生命編は未来から5番目の話、逆に言うと現代から2番目に近い未来の話です。
詳細な時代設定は、プロデューサー青居がアンデスに旅立つのが2155年で、22世紀の話になります。
今から約100年後のお話で、わりと近い未来ですよね。「生命編」を手塚治虫が実際に描いたのは1980年なので、そこを基準にすると150年以上先の未来となりますが。
「火の鳥シリーズ」で末来が舞台となるお話は、人類の宇宙進出が描かれることが多いのですが、22世紀の生命編では宇宙は描かれず、地球で繰り広げられるストーリーです。
生命編で焦点が当てられるのはクローン技術です。
まだ不完全ながらもクローン技術が実用化されていて、食用としてのクローン動物が人口増加を支えています。
しかし、テレビの娯楽番組のショーとして、生命を消費するためにクローンを求めるようになり…
22世紀はクローン技術等は進んでいますが、生命に対する人間の倫理は崩壊しつつあり、クローン動物やクローン人間を狩りする番組が人気を博しているという設定になっています。
「生命編」は、ディストピアとしての近未来を描く物語と言えます。
クローン生物の生命はなぜ軽んじられるのか?
「生命編」で目に付くのは、何といっても「生命の軽い扱われ方」です。
「生命編」で軽く扱われるのはクローン生物です。
「クローンハンティング」という番組は、クローン動物をハンターが射殺するスリルを楽しむ番組です。
その「クローンハンティング」が「クローンマンハント」という、クローン人間を狩りする番組にかわっていくわけですが、
そこにあるのは「クローン生物の生命はぞんざいに扱ってよい」とする考え方です。
このような番組は狩られるのがたとえ動物でも、クローンでなければ、動物虐待罪が適用されたり、動物愛護団体から強烈な非難が来るはずです。
なぜ、クローン生物の生命は通常の生命より軽んじられるのか?
いくつか考えられる点があります。
…まとめると、唯一無二ではないということが、最も大きな原因に思われます。
要するに、クローンは「かけがえのない存在」ではなく、いくらでも替えがあると。
エヴァンゲリオンでの綾波レイの有名なセリフ「わたしが死んでも代わりはいるもの」に端的に表れていますね。
逆に生命の尊さというものについて、私たちは直感的にそれがかけがえのない存在であるからこそ尊いと考えるのかもしれません。
余談ですが、それならDNAが同じ一卵性双生児はなぜ軽んじられないのか?というと、自然にはめったに存在しない同一のDNAという部分が、逆に重宝されるという感じですね。
人工的に作ったわけでないというところに、人々は神秘性を感じるのでしょうか。
クローン生物の生命は本当に「軽い」のか?
さて、生命編でクローン生物の生命は軽視されていますが、この軽視は人間の本能的なもので、差別ではない自然な感情といえるのでしょうか?
クローン人間の尊厳というと…カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を思い出しますね。
「わたしを離さないで」は、臓器移植のための道具として生み出されたクローン人間たちの話です。
クローンとして生まれた子どもたちを育てるへールシャムという施設が、「クローン人間も普通の情緒がある人間です」というメッセージを発するために、クローンの子どもたちに絵を描かせます。
では、もしクローン人間が、見る人の魂を揺さぶるような作品を描いたら、そのクローン人間の生命は「かけがえのないもの」に変わるのでしょうか?
…簡単には答えられない問いですよね。
もし「YES」なら、「素敵な絵を描ける人ほど生命の価値が上がる」ことになり、クローンでない人間の生命の重さにも差があることになってしまう…。
逆に「NO」なら、「絵を描く人間的情緒を持ち合わせている生命の価値を認めない」ことになり、人間的情緒≒人間の尊厳が足元から脅かされてしまう…。
「火の鳥・生命編」では、本物の青居より、クローン体のNo.2の方がやさしくて人格者です。
クローンだからという理由で「No.2の命は本物の青居より軽い」と考える読者は少ないでしょうね。
「クローン人間を作ることは、かけがえのない人間存在の根本となるDNAを複製することで、個人としての人間の尊さをおびやかすため認められない」という考えに、私はいくらか賛同する部分があります。
世界は多様性によって支えられ、人間もいろいろなタイプがいるからこそ世界は深まる→多様性を生み出すために、それぞれの人間の唯一無二さを担保する独自のDNAは尊く、コピーしてはならない。
…しかし、この考えは「クローン人間はただのコピーで唯一無二ではないから、その生命は尊くない」という方向へ行ってしまう可能性があります。
クローンとして生まれた人間が、人工的生命だからといって普通の人間より情緒が欠けているという可能性は低いでしょう。
クローン人間にも普通の人間と同じ感情があり、同等に扱われるべきだと考える人の方が多いのではないでしょうか。
クローン人間の誕生に反対する立場は、クローン人間の命を軽視することとイコールではありません。
ですが「この2つの考え方は結びつきやすいかもしれない」と、クローン誕生に慎重な姿勢がある一方で、クローン生物をショーに利用する…という生命編に描かれた世界を見ながら感じました。
まとめ
「火の鳥・生命編」は他の火の鳥シリーズと比較すると、「漫画の出来」という観点からは、あまり高くないように思います。
22世紀という近い未来に、「クローン人間を射殺して楽しむ番組が視聴率を取る」ほど人間の価値観が激変していることに違和感を感じます。
また青居とジュネが15年も警察から逃れて、そこそこ人里から近い自然で自給自足の生活を続けるというのもリアリティがありません。
生命編にはそういった点はありますが、やはり扱っているテーマはさすが火の鳥シリーズならではの深さがあります。
私の予感ですが、いつかクローン人間が誕生する時代は来るでしょう。
その時代が来た時に、「人間の尊厳」という立場からクローン人間に反対する人たちは、逆に「クローン人間の尊厳」を損ねてしまうのではないか…。
自分たちで進歩させた科学技術に人間は思想面ではついていけず、どんどん引き離されていくようにも感じます。
人間は自分の手には負えないテクノロジーには手を出すべきではないのか。
それとも新しいテクノロジーについて行けるだけの哲学・倫理観をなんとか作っていかなければならないのか。
火の鳥に答えを仰ぎたくなるような問いですが、こういう問いこそ、人間が自分たちの頭で考えていかなければならないのでしょう。
火の鳥シリーズは巻数が多いので、かさばらない電子書籍で読むのもおすすめです。