中島みゆきさんの楽曲「永久欠番」の歌詞について考察してみます!
「永久欠番」ってどんな歌?
「永久欠番」は、中島みゆきさんが1991年に発売したアルバム「歌でしか言えない」の6曲目に収録された歌です。
1991年頃は、CDの台頭により、カセットテープが消えつつありました。
とはいえ、まだカセットテープも残っていた時代。
中島みゆきさんのアルバムは、カセットテープのA面最後(=アルバムの前半最後)に当たる楽曲に大作が多く、「歌でしか言えない」に収録された12曲の6曲目にあたる「永久欠番」も、そんな感じの立ち位置でした。
「永久欠番」はスローテンポですが、壮大なアレンジと中島みゆきさんの歌唱力が相まって、「聞き流し」できない感じの歌ですね。
ついつい作業の手を止めて、じっくりと聞き入ってしまいます。BGMにはめっちゃ不向きです!
「永久欠番」は「人の生の価値」という普遍的なテーマを扱っていて、中学校の国語の教科書にも掲載されたことがあります。
「永久欠番」で問われる「人間の生の価値」
「永久欠番」に歌われているテーマは、先にもちょっと触れましたが「人の一生の価値」でしょう。
100年前も100年後も 私がいないことでは同じ
同じことなのに生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい
人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
だれか思い出すだろうか ここに生きてた私を
「どうせ忘れ去られるささやかな人生に価値はあるのか?」という、普遍的な問いかけです。
中島みゆきさんの楽曲にはこのテーマを歌ったものがいくつかあり、「瞬きもせず」「吹雪」などがテーマが近いかなと思います。
「永久欠番」に描かれる無常観
「永久欠番」の歌詞のテーマとして、もうひとつ考えられるのは無常観です。
「永久欠番」の冒頭は無常観たっぷりに始まります。
どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする
この世で成功した人だろうと、普通に生きた凡人だろうと、誰にでも死は平等に訪れる。
街は回ってゆく 人1人消えた日も
何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
人1人の人生が終わっても、世界は何もなかったようにそのまま続く。
切ないのは「何も変わる様子もなく」という部分ですね。「私がこの世界からいなくなること」は世界に何のダメージも与えないのです。
そんな私の人生は意味があるのだろうか?
もちろんこの世で大成功した人の死は大きく報道されますし、世界中の多くの人がその人の死を悼むかもしれません。
ですが…
どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ
人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
どんな大成功をした人も、年月が経つうちにどんどん忘れ去られていきます。
歴史上の大人物は1000年以上経っても名前が残っていますが、しかし、人間の歴史だっていつか終わりがくるかもしれない。人間の歴史が終われば、どんな歴史上の大人物でも痕跡を残せません。
かけがえのないものなど いないと風は吹く
風のような大自然から見ると、人間の歴史など小さい存在。大自然の壮大な歴史の前では、かけがえのない存在など誰一人いないのです。
歴史上の大人物でさえかけがえのない存在ではないのだから、私の平凡な人生など本当に取るに足らないだろう…。
人生において避けられない切なさです。
なぜ忘れられても「永久欠番」なのか?
さて、「永久欠番」に描かれるテーマは「人の生の価値」と「無常観」。
中島みゆきさんの楽曲の中では、特に謎の多い歌詞というわけではありません。
ですが「永久欠番」の歌詞には、ひとつだけ難しい部分があります。たったのひとつだけ。「永久欠番」の歌詞の解釈は、ここに尽きると言っても過言ではありません。
それは、ずっと無常観を歌ってきた歌詞が最後の最後に一気に覆る部分です。
100億の人々が 忘れても 見捨てても
宇宙(そら)の掌の中 人は永久欠番
この部分も「100億の人々が、私が死んだあとに私の存在のことを忘れるし、見捨てる」こと自体は認めます。
ちなみに「見捨てる」というのは、お墓が見捨てられるという意味かなと思います。
しかし、忘れても見捨てても、人は永久欠番なのです。
では、「永久欠番」とはそもそも何か。
スポーツ界での「永久欠番」は、その番号をつけていた偉大な選手に対し、「もう二度と現れない唯一無二の選手」という賛辞の意味合いがあるのでしょう。その穴は誰にも埋められない、と。
でも、そうすると「100億の人々に忘れられても見捨てられても永久欠番だ」というのは矛盾しているように感じます。
忘れられ、見捨てられるんだから、まさに「代わりなどいくらでもある」のではないか。
ここで鍵となるのは、「宇宙(そら)の掌の中」というフレーズでしょうね。
人間は、たとえ王や長嶋のような偉大な野球選手であっても、長い長い長い長ーい時間が経てば、いずれ同レベルの選手は出てくるでしょう。
しかし、まったく同じ…投げ方、打ち方、走り方、ガッツポーズの仕方、笑い方…すべてがまったく同じだという選手は永遠に出てこないはずです。
人間の一生も同じでしょうね。
自分がこの世から消えたとしても、自分がやってきた、ささやかな仕事は他の誰かが穴埋めして、世界は何も変わりません。
しかし、私とまったく同じ人間は、どれだけ歴史が流れてもおそらく出てきません。
遺伝子に関する技術が進めば、完全に同じ遺伝配列を持った人物が登場する可能性はありますが、経験や感情までもがまったく同じだという人間は現れようがないのです。
そして、そんな私が人生を閉じる時には、私という存在は、どんなにささやかでも「永遠」に「欠」けた存在となる。
人々が忘れ、もしかしたら人間の歴史そのものが終わっても、宇宙という大きなスケールの中、「まったく同じ人間は歴史上一人もいない私が確かに生きていた」という事実だけはなくならない。
それが人間の生の支えにならないだろうか?…最後のフレーズは、中島みゆきさんのそんな問いかけに思えます。
まとめ
「永久欠番」の歌詞の意味を考えてみた記事でした。
「永久欠番」は一見わかりやすい歌詞のようで、深く考えてみると、哲学的で難しい問いだと感じます。
「人は永久欠番」…この最後のフレーズは、自分はもちろん、他者を大切にする思想にもつながっていきますね。
今の私は自分のことで精一杯な感じですが、いつかこの歌を、「他者」を軸に聴けるようになると、もっと深みが増すのだろうなと感じます。