中島みゆきさんの楽曲「命の別名」の歌詞について考えます!
「命の別名」はどんな歌?
「命の別名」は、中島みゆきさんが1998年に発売したシングル曲です。
カップリング曲は1992年のアルバム「EAST ASIA」に収録されている「糸」。
「命の別名」「糸」どちらも、ドラマ「聖者の行進」の主題歌として使われました。
「糸」は新作ではなかったのですが、ドラマに使われたためかB面ではなく、両A面シングルとして売り出されました。
1990年代の音楽シーンは、ドラマ主題歌が売れる傾向にあり、中島みゆきさんも「浅い眠り」「空と君のあいだに」など、ドラマとタイアップしたヒット曲を生みました。
「命の別名」も同じくらいヒットするかな?と思っていたのですが、当時はあまり売れず、それほど広く知られる歌にはならなかったです。
1990年後半は学生だった私、カラオケで「浅い眠り」「空と君のあいだに」はよく歌ったけど、「命の別名」は皆知らないからほとんど歌わなかったなあ…。
個人的には「浅い眠り」「空と君のあいだに」より名曲に思えるのですが、シングルとして発売されたバージョンは淡々としたアレンジ・歌い方なので、一般受けしなかったのかもしれません。
「命の別名」はシングル発売後にアルバム「わたしの子供になりなさい」にも収録され、こちらはテンポの良い別のアレンジになっていて、中島みゆきさんの歌い方も力強いです。
私はシングル、アルバムどちらのバージョンも好きです!
全体としてのテーマは「ささやかな生の肯定」
「命の別名」の歌詞は解釈が難しいところもありますが、全体としてのテーマは「ささやかな生の肯定」という方向で間違いないかと思います。
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えてゆく
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
何の足しにもなれず、何かの役割を果たすでもなく、そんな自分が存在することを喜んでくれる人はいるのだろうか?と思うほどの人生。
くりかえす哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
誰かを喜ばせるわけでもない無力な人生においては、「哀しみ」が何度もおとずれる。
そんな「哀しみ」を「照らす灯をかざせ」というのは、「灯」だけで「哀しみ」が消えることはないだろうけど、暗闇の中の一筋の光として、「哀しみ」の多い人生を微力ながら援助する。
「命の別名」は、ささやかで無力な人生に対する、ささやかな応援歌なのかなと思います。
「命につく名前=心」の意味は?
さて、わかるようでわからないのが、「命の別名」の歌詞の根幹である、このサビの部分の解釈です。
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
何となーくわかる気もするのですが、パッとは解釈しづらいフレーズなので、丁寧に読み解いてみます。
「名もなき君」「名もなき僕」というのは、ささやかで無力な人生を生きている人々のことでしょう。
名もない人生…「誰かの足しにもなれずに生きて何にもなれずに消えていく」君にも僕にも、「心」がある。
人生の成功とか肩書はなくても、人は誰でも「心」を持っていると。
「心」は誰でも持っている「命」=「ここに存在している」ということそれ自体に付随している。
「命につく名前=心」とは、そういう意味なのではないでしょうか。
「命の別名」の歌詞に明確には描かれませんが、この「心」こそがどんな命をも尊いものにしているのだ…そういうメッセージが読み取れる気がします。
この部分の解釈が難しいのは、「名」が「(文字通りの)名前」という意味と「名声」という意味、2通りで使われているのではないかと思います。
この2通りの意味を使い分けて解釈してみると…
人は誰でも名前を持っているが、人々は誰かの名前を聞くと、その人の社会的肩書き≒名声を頭に思い浮かべがちである。だが人の名前は、社会的肩書きよりも、誰でも持っている「心」の方に強く結びついている。
「名もなき君にも名もなき僕にも」の部分の「名」は、「名声」という意味で使われていて、「名もなき僕にも」の後ろには、「心がある」というフレーズが省略されているかなと思います。
「名前(≒名声)」を持たない人も「心」は持っていて、その「心」こそが人間の根幹部分なのだ…そういうメッセージではないでしょうか。
石、木、水はどんなものとして描かれる?
「命の別名」のBメロには、石・樹・水が登場します。
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ
「命の別名」でちょっと考え込んでしまうのが、なぜ「石・樹・水」が登場するのかということ。
頭に浮かぶのは、日本古典の「徒然草」に出てくる一節です。
人、木石にあらねば、時にとりて、ものに感ずる事なきにあらず。
吉田兼好「徒然草」第四十一段より
現代語にザックリと訳すと、「人は木や石ではないのだから、その時々の状況において、物事に心を動かされて感動することがある」くらいの意味です。
この「人、木石にあらねば」という言い回しは、「徒然草」の作者・吉田兼好のオリジナルではなく、唐の詩人・白居易が詠んだ詩に基づくそうです。白居易の詩の方から引用すると…
人木石に非ず皆情有り
白居易「新楽府・李夫人」より
…となっていて、「人は木や石ではなく誰でも心を持っている」というニュアンスです。
中島みゆきさんも、ここで「石」「樹」を心を持たない存在の象徴として使っているのではないのでしょうか。
それでは「水」は?…というと、孟子の言葉である、
水の低きに就くが如し
「孟子」
…こちらが頭に浮かびます。
もともと「水が低い方に流れるように自然の法則には逆らえない」くらいの意味だと言われますが、「水は低い方に流れるように、人間も謙虚でなければならない」という人生哲学として使われることがあります。
つまり「水」は、低い方へと流れていくため、成功を争って誰かを傷つけたりしない。
こうやって考えると、「石・樹・水」は心を持たないからこそ誰も傷つけない存在として、歌詞の中に登場しているのではないか…と思えます。
メッセージは「石・樹・水のように生きろ」ではない
では「命の別名」には、「誰も傷つけない石・樹・水を見習って生きよう」というメッセージが込められているかというと、ノーだと思います。
私たち人間には心があるため、どうしても誰かを傷つけずに生きることはできない。
歌詞の中では石・樹・水に対し、「僕と生きてくれ」「くり返すあやまちを照らす灯をかざせ」というメッセージが向けられています。
人間は石・樹・水のような自然界のものたちのような生き方はできないけど、自然は、哀しみ(≒傷つけられる)やあやまち(≒傷つける)を繰り返す人間を包んでいる。
心を持たない自然からすると、心を持って傷つけあう人間の生き方は、きわめて愚かに見えることでしょう。
それでも人間の命には心が付随するため、人間は相手を傷つける存在として生きざるをえない。
くり返す哀しみ/あやまちを 照らす灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
哀しみやあやまちの源泉である「心」だけど、「心」は何も持たない無力な人間でも持っていて、誰にとっても支えになるものでもある。
心をもたない≒傷つかない・傷つかない自然界のようではなく、心を持つ人間として傷ついたり傷つけたりしながら生きていく…そのこと自体を受けとめたい、そういう感じかなと。
自然は心を持たず誰も傷つけない存在として人間の世界を包んでいで、人間は自然のようにはなれないけど、人間の世界をやさしく見守っていてほしい。
…ちょっと深読みしすぎにも思いますが、こういう方向のメッセージに思えます。
人間は完全な存在にはなれない
傷つき/傷つける「心」を持つ人間は、完全な存在にはなれない…そんな思想が見られるフレーズが2つあります。
まずは冒頭の歌詞。
知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
ここでの「大人」は、文字通りの子どもに対比された大人ではなく、完成された人格としての人間を指しているのではないでしょうか。
そうすると「最後まで覚えられない言葉もきっとある」という部分は、人間は完全な存在にはなれないことを歌っていると解釈できます。
また2番の冒頭となる歌詞は、こうなっています。
たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある
人は悲しいからといって泣けるわけではなく、笑顔を作って涙を我慢している時もあります。
そのため、自分の悲しみをわかってもらえないこともあるし、逆に他人の痛みに気づかないこともある。
ここにも人間の限界というか、人間が不完全な存在であることが表現されていますね。
私たち人間が傷ついたり傷つけたりするのは、必ずしも相手に悪意があるわけではなく、ただ自分の痛みを伝えられなかったり、他人の痛みがわからなかったりと、人間が全能ではないことが原因だったりもする、と。
それでも「命の別名」の歌詞は、「くり返す哀しみ/あやまちを照らす灯をかざせ」と、悲痛なメロディにのせて、人間の不完全さを何とか肯定しようという姿勢が見られます。
まとめ
考察があっちこっちに飛んでしまったので、最後に「命の別名」の歌詞の解釈をまとめます。
すべての人間の本質は「心」にある。「心」があるから人は傷ついたり傷つけたりする不完全な存在である。それでも「心」を持つ人間の生き方を肯定したい。
短くまとめてしまいましたが、こんなコンパクトな文字数では表しきれない深い人間哲学を感じる歌詞です。
「不完全な存在を肯定する」のは非常に難しいですし、「命の別名」の歌詞には、どうすれば不完全な「僕」や「きみ」を肯定できるのかまでは描かれていません。
それでも「命の別名」を聴いていると、悲壮なメロディに乗って力強く歌い上げる中島みゆきさんの声によって、何となく肯定できるような気がしてきます。
理屈ではない芸術の力なのかもしれませんね。
「命の別名」を静かなシングルバージョンで聴きたい場合は、シングル曲を集めた「Singles2000」で聴けます。
力強いアレンジのアルバムバージョンは、オリジナルアルバム「私の子供になりなさい」か、ベスト盤「大銀幕」に収録されています。