東京の新しい駅名として決まった「高輪ゲートウェイ」駅。
なんと、アンケートでは9割以上が反対という結果に!
最初、私は
駅名なんて何でもよくない?何でそんなに騒いでるの?
と、思っていたのですが、この件に関するいろいろな意見を見ていると、考えさせられることがありました。
「高輪ゲートウェイ駅」はなぜ反対されている?
高輪ゲートウェイ駅。
こんな感じのカタカナ交じりの駅は他にもあります。
あんまり鉄道にくわしくない私でも「天王州アイル」が思いつきますし、他にも「越谷レイクタウン」という駅が路線図を見ると目に入ります。
そんなわけで
たしかに「高輪ゲートウェイ」は、キラキラ駅ネームの感じはあるけど、90%が反対ってどういうこと?
と、思っていたら、反対する人の理由は、大きく2つあるみたいですね。
なるほど。確かに、反対されるだけの理由はあるんですね。
駅はそこで生きる人々の共通財産?
1の理由にも、2の理由にも共通しているのは、「駅」という存在が、公共性の強いものとしてとらえられているということです。
1だと「公募して、みんなが良いと思っている名前がつけられないのはオカシイ」というのが根底にあります。
2だと、別に駅名の統制が取れていないことは、鉄道会社がちょっとセンスがないだけで、批判を受けることではない感じがしますが、人々は山手線を自分たちの世界の一部だと捉えているところがあるのでしょう。
だから、「私たちの生きる世界の調和を勝手に乱さないで!」という訴えにつながるのだと感じます。
SNSの時代で、ネットで火がついて人々の反応が大きくなった部分はあるかもしれませんが、それを差し引いても、人々は鉄道駅を鉄道会社の私物ではなく、そこで生きる人々の共通財産だと考えている。
興味深いですね~。
住民が「駅名の調和」を気にかけるという面白み
ヨーロッパでは、都市国家として栄えた町が多いせいか、住民たちの町に対する景観の意識が高く、大きな建造物を作る時は、町並みから浮かないように配慮するものです。
町並みと調和しない、エキセントリックな建物が作られると、住民から非難されることもあります。
日本ではそういうことはあまりないなあと思っていましたが、町並みではなく、鉄道路線の、駅の名前の調和を気にかける人が多いことに驚きました。
そういえば日本語は、短歌や俳句など、文字数や語呂のリズムやハーモニーを大切にする文化がありますね。
現代を生きる私たちは、和歌をたしなむ機会などほとんどないわけですが、それでも、こういうことを気にかけるのが、何だか面白いなあと感じました。
山手線でなければこんなに騒がれなかった?
さて、最初は「高輪ゲートウェイ」という駅名は、別にどうでもいいと思っていた私ですが、実は、この駅が山手線の駅だと聞くと、
それは問題だな~。
と、とっさに思ってしまいました。
これが、私鉄のローカル線だったりしたら、あまり関心を持たない人もいたのかもしれません。
都心をぐるっと回っている山手線は、どこかで、東京人のアイデンティティで、自分とは関係ないことだと思えないのかもしれないなあ。
高校野球が好きな私にとって、東京というのは、同じ首都圏の神奈川や千葉、埼玉とくらべて、みんな地元の代表校に興味がなく、愛郷心がほとんどない町なんだなと思っていました。
ですが、今回の駅名反対のムーブメントを見ていると、何気に東京人も、東京に対して愛着に近い何かを持っているんだな~という驚きがありました。
逆に言うと、愛郷心がそれほどない東京人にとっても受け入れがたいくらい、「高輪ゲートウェイ駅」という名称は、ちょっとそぐわないのかもしれません。
まとめ
というわけで、今回の「高輪ゲートウェイ駅」問題では、駅の公共性や、日本人の語感に対する敏感さ・繊細さ、東京人のアイデンティティという、今まで考えもしなかったことを発見する機会になりました。
私はこの駅名に賛成か反対か…というと…そうですね、「私ならこんな駅名にはしないな」という感じですねえ。
やっぱり調和としておかしいですよね。野球で言えば投手、捕手、一塁手の次が「セカンド」と表記されて、また次から三塁手、遊撃手…となっているようなものですよね。