PR

バンクシーのシュレッダー事件で考える「芸術は誰のものか?」

ぽこ考えた
記事内に広告が含まれています。

今から500年ほど昔、西洋史はルネサンス期の時代でした。

この時代の主な芸術家は、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどで、現代人の私たちは世界史でその名前を学びます。

逆に今から500年後の未来では「現代アートはどのように振り返られるのだろう?」と考えることがあります。

現代アートは、現代人が見ても「美しい」と思えない作品があったりして、500年後の人類は、それをどう評価するのだろう、と。

「普遍的な美」…そんなものがあるのかどうかはわかりませんが、少なくとも「普遍的な美」という観点からは、むしろ芸術は後退しつつあるのではないか、そんなことも感じます。

おそらく現代アートにとって、芸術とは美を追求することがすべてではないのでしょう。

そんなことを感じさせたのが、覆面芸術家バンクシーによる、オークションでの絵画シュレッダー事件でした。

「なぜ」と問わせることまでがアートの目的?

バンクシーはどうやって、シュレッダーを額縁に仕込んだのか…これはHowという形の問いですね。おそらく、これは答えが出ると思います。

私が興味があるのは、バンクシーはなぜ、シュレッダーで絵画を裁断したのか、というWhyの問いの方です。

バンクシー側から、この<Why>に対する答えは、明確に語られていないようですね。

まあ、そうでしょうね。おそらく裁断したところまでアート、作品なのです。自分の作品について雄弁に解説するのは粋ではありません。

こうやって、バンクシーのことを今まで知らなかった人々、つまり私にも、<Why>を考えさせることがこのアートの目的ならば、見事に成功しているなあと思います。

知られざる日本のボッティチェリ作品

ヴィーナスの誕生

急に話が変わりますが、日本には「ヴィーナスの誕生」で知られるボッティチェリの傑作「美しきシモネッタの肖像」があることは、あまり知られていません。

ルネサンスの巨匠の作品が日本にあるのに、どうしてあまり日本人がそのことを知らないかというと、答えは簡単で「見ようと思っても見れないから」です。

まだ世間知らずだったころの私は、著名な芸術作品というものは、美術館に足を運び、入場券を購入すれば、鑑賞できるものだと思い込んでいました。

しかし、世の中には美術館で展示していない、私有の芸術作品があるんですね。

ボッティチェリの「美しきシモネッタの肖像」は丸紅という会社が所蔵していて、一般公開されていません。

丸紅本社ビルの役員フロアにうやうやしく飾ってあり、社員ですら、お目にかかれる機会はあまりないのだそうです。

「美しきシモネッタの肖像」は、2016年に東京都美術館で開催されたボッティチェリ展に、特別出展されました。

その時に観賞しましたが、作品の出来不出来があるボッティチェリ作品の中では、なかなかクオリティが高かったです。

そして、やっぱり思いました。

ぽこ
ぽこ

これほどの素敵な作品を、見る機会がほとんどないなんて、もったいない…

バンクシーは作品をオークションにかけたくなかった?

アート

さて、バンクシー騒動の

ぽこ
ぽこ

なぜ芸術家バンクシーは、自らの作品をシュレッダーにかけたんだろう?

という問いに戻ります。

この「なぜ」に対する答えとして、いろいろな考えを目にしましたが、一番「なるほど…」と思ったのは、「バンクシーはこの作品をオークションにかけたくなかったのでは?」という意見。

オークションで、財力のある個人またはグループが高額で作品を購入し、作品が私物となってしまうと、ボッティチェリの「美しきシモネッタの肖像」のように、限られた人しか鑑賞できなくなります。

私は不勉強で詳しくは語れないのですが、「芸術は公共財」という考え方があります。

「芸術は公共財」だとすれば、「すばらしい芸術作品の持ち主は、その作品を多くの人が鑑賞できるようにするべき」ということになります。

しかし、高額で傑作を手に入れた人は、それを公開して社会貢献するより、作品を財産として扱いがちです。

丸紅は「美しきシモネッタの肖像」を、上客との取引の際に、言葉は悪いですが利用しているような側面もあります。

オークションで高額落札された瞬間に、作品の裁断がはじまったのは、作者バンクシーの「この瞬間、この作品はダメになった」というメッセージなのかなあ…と。

「誰にも認識されていないものは存在していると言えるのか?」という哲学的な問いがありますが、芸術に当てはめると「鑑賞されることなく、ただの個人の財産となった作品は、芸術作品と言えるのか?」という感じですね。

この問いに対する答えは…今の未熟な私には、何とも言えません。

ただ、

ぽこ
ぽこ

「美しきシモネッタの肖像」は、誰でもお金を払えば見れるといいのにな。

と思うだけです。

問い詰めれば芸術作品は作者のものか?となる…

フィレンツェ

さて。ボッティチェリは、実はバンクシーと少し似たことをしでかしています。

ボッティチェリが活動していたルネサンス期のフィレンツェに、禁欲を説く怪僧サヴォナローラが登場すると、ボッティチェリはサヴォナローラに心酔します。

その結果、「自分が描いた派手で華美な作品は人々に悪影響だ」と考え、いくつかの自分の作品を焼き捨ててしまったのだそうです。

サヴォナローラはカトリックの僧ですから、ボッティチェリが焼き捨てた作品の中には、異教的…ギリシャ神話モチーフの作品があった可能性があります。

「ヴィーナスの誕生」がこのときに失われなかったのは、既に注文主の手に渡っていて、ボッティチェリの手元にはなかったからだと言われています。

芸術が公共財だとすると、ボッティチェリやバンクシーのように、作者自身による芸術作品の廃棄や破壊は許されるのだろうか?という問いも浮かび上がってきます。

ぽこ
ぽこ

ただしバンクシーは、パフォーマンスまで含めてのアーティストという側面が強いので、裁断したことまでがアートなのでしょうね。

今回のバンクシー騒動をきっかけに、自分の頭の中でぐるぐる考えたことの答えは出せないなあ…という感じですが、普段は「芸術とは?」と考えない庶民の私に、考える機会をくれたバンクシーに感謝したいと思います。

 

タイトルとURLをコピーしました