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2020年選抜高校野球中止で感じた「皆で不幸になろう」という空気

高校野球
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2020年のセンバツ高校野球は、新型ウィルス感染症の拡大により中止となりました。

高校野球ファンの私にとって残念ではありますが、私には感染症の専門知識はなく、大会を開催することのリスクを判定できないため、中止が妥当なのかどうかはわかりません。

大会本部もいろいろな意見がある中で、苦渋の末たどりついた結論なのでしょう。尊重したいと思います。

ただ今回の議論の中で、考えさせられたことがあったので書き記しておきます。

選抜中止の理由が「高校野球だけズルイ」!?

今回、新型の感染症が世界中で拡大する中で、日本でも多くのイベントが中止になっています。

プロ野球は開幕の延期、Jリーグは中断。

また、高校の部活動の選抜大会も多くが中止となりました。

その中でセンバツ高校野球は3月4日の段階で、「無観客での開催」を前提にしながらも、結論を1週間先送りにしました。

もちろんファンの中にも、「普通に開催派」「無観客で開催派」「中止派」といろいろな意見がありました。

私がちょっと驚いたのは、「中止派」の中に「高校野球だけ特別扱いで開催するのはおかしい」という声が少なくなかったことです。

「野球は屋外競技とはいえ、ウィルスは未知数なので念のため中止した方がよい」というように、新型ウィルスへの慎重な姿勢から中止を主張するのならわかります。

ですが、「高校野球だけズルイ」というのは論点がずれているように感じました。

高校野球が無観客開催を模索したのは好条件があっただけでは?

プロスポーツは観客あってのものだから無観客はありえない。

高校の他のスポーツは室内競技はリスクが高い。室外競技であっても感染症に配慮しながら開催する資金と人手が確保できないから難しい。

しかし、高校野球はプロではないので無観客でも開催できますし、屋外競技ですし、強力なスポンサーがついているため資金と人手は確保しやすいです。

つまり高校野球は、開催か中止かを考える際に、開催を前向きに考えてもよい条件が他のスポーツ界よりはそろっていました

要するにラッキーだったわけです。

このようなラッキーさを備えているものに対し、「あなたほどラッキーでないものと足並みをそろえるべきだ」と言うのは、「皆で同じだけ不幸になろう」と言っているようなものではないでしょうか…。

「皆で不幸になろう」ではなく「私の分まで楽しんで」

ぽこ
ぽこ

この「皆で不幸になろう」という空気、いつだか感じたことがあるなあ…

…と考えてみると、2011年の東日本大震災の時ですね。

確かあの時は日本全国が自粛モードになり、花見まで自粛するような同調圧力的空気が流れていました。

あの時も私は、

ぽこ
ぽこ

震災の被害があまりなかった地域の人たちは、逆に活発に動いて日本経済を回した方がいいのに…。

と、思っていました。

「皆で不幸になるべきだ」ではなく、「幸せな人は私の分まで楽しんで!」という社会の方がずっと明るく健全なのではないかと。

ちょっと理想論的なことを言えば、幸せな人がいてこそ、不幸な人を助けられるいう側面もあると思います。

人の不幸ではなく幸せを願えるように!

誤解のないように繰り返し書きますが、私はセンバツは開催すべきだったとは思っていません

ウィルスが未知数である以上、中止も仕方ないと思っています

ただ、「他のスポーツが自粛しているのに高校野球だけ開催するのはズルイ」という声に、違和感を感じただけです。

とはいえ私も不完全な人間で、自分より恵まれた境遇の人に嫉妬することはあります。

中島みゆきが「怜子」という歌で

ひとの不幸を祈るようにだけはなりたくないと願ってきたが

と歌いますが、歌詞は逆接で続いています。「願ってきた」それは難しいことなんですよね。

でも、できれば頑張って、嫉妬は心の中だけで終わらせたい。

嫉妬の感情を抑えきれず、私より幸せな人の足を引っ張らないように気をつけたいです。

ぽこ
ぽこ

どうか人の幸せを祈れる人間になれますように!また、今回甲子園の土を踏むことが叶わなかった高校球児たちが、今回の逆境をどうか自分の成長につなげられますように!

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