中島みゆきさんの「ショウ・タイム」の歌詞について考えてみます。
「ショウ・タイム」はどんな歌?
「ショウ・タイム」は、中島みゆきさんが1985年に発売したアルバム「miss M.」の8曲目に収録されている楽曲です。
「miss M.」が発売になった1ヶ月後には、「つめたい別れ」というシングルのB面にも収録されました。
「ショウ・タイム」は、マイナーコードのアップテンポ曲です。
歌詞は当時の世相を鋭く描いていて、中島みゆきさんが冷たく乾いた声で歌い上げるためか、やや批判的に風刺している感じを受けます。
ドギツイ歌詞で、解読がむずかしい箇所もありますが、考察してみます!
大きなテーマは「テレビメディア」
「ショウ・タイム」の歌詞に描かれている大きなテーマは、「テレビメディア」です。
たまに虚像の世界を翔びたいだけ
カメラ回ればショウ・タイム
「虚像の世界」=「ショウ・タイム」であり、これは、カメラで捉え、日本中に一斉に流されるテレビの中の世界のことだと推測されます。
日本でテレビ放送が始まったのは1953年。
その後、高度成長の波に乗り、ほぼ全ての家庭にテレビが普及したのは1970年代。
「ショウ・タイム」が発売されたのは1985年で、日本のサブカルチャーとしてテレビが定着してから15~20年くらいの頃です。
中島みゆきさんは1952年生まれなので、10代後半~20代くらいからテレビに親しんでいる感じで、もっと幼い頃にはテレビのない時代を経験していますね。
そんな中島みゆきさんから見た、「テレビ社会の華やかさと脆さ」が「ショウ・タイム」では歌われている…という路線に沿って歌詞を考察していきます。
「日本中」を覆う地味な日々の退屈さ
「ショウ・タイム」の冒頭はこのような始まります。
日本中このごろ静かだと思います
日本中秘かに計画してます
なにも変わりありません なにも不足ありません
たまに虚像の世界を翔びたいだけ
ショウタイムの1番では「日本中」という言葉が何度も登場しますが、この「日本中」という表現が、まさにテレビ時代を表しています。
テレビが普及し、「日本人が一斉に同じ番組を見る」という、テレビのない時代にはあり得なかった状況が生まれました。
日本中が同じテレビ番組を見ることで、日本中でゆるやかに社会の空気が画一化されていくことの象徴として、「日本中」という表現が使われています。
このことは2番のこの歌詞にも表れています。
人が増えすぎて区別がつきません
みんなモンゴリアン区別がつきません
テレビによる流行で、人々のファッションが画一化されているということと共に、見た目だけではなく、人々の中身も同じになっていっていることを表しているのではないでしょうか。
では、日本中がどのような空気感になっているのか…というと、
「静か」「なにも変わり/不足ありません」という表現からは、経済的に豊かになって不足はないけれど、変化のない静かで地味な生活が読み取れます。
息が詰まりそうな地味な暮らしが続く
いいじゃないの憧れても すてきなショウ・タイム
でも、実際に日本人がテレビが普及してから地味な生活を送るようになったのかというと、おそらく「地味な生活を送っている気がするようになった」という方が正しいでしょう。
テレビで華やかな世界が流されるのを見ていると、自分のシンプルな生活が地味に感じられてくるのではないか。
そこで、「日本中秘かに計画」をしているのです。
何をか、というと、地味な生活から抜け出す千載一遇のチャンスを。
「たまに虚像の世界を翔びたいだけ」「いいじゃないの憧れてもすてきなショウ・タイム」…たまにはテレビの華やかな世界に自分が入っていきたい…そういう感じですかね。
Watch&enjoyの別世界へ
「たまに虚像の世界を翔びたいだけ」。
この「虚像の世界」=テレビの中の世界は、「ショウ・タイム」という言葉で言い換えられています。
いまやニュースはショウ・タイム
いまや総理はスーパースター
カメラ回ればショウ・タイム
通行人も新人スター
テレビの中の世界は華やかな「ショウ・タイム」。
テレビに出演している人は、総理だろうが通行人だろうが華やかな「スター」。
本来ならニュースは、現実で起こっているリアルな出来事で、華やかさとは無縁なものでしょう。
ですがテレビで流されるニュースは、映像効果・音響効果で装飾されて、非現実的で華やかで、どこか遠い所で起こっている作り話のように感じられる…。
そこに登場する総理も、一般人も、リアルな存在ではなく、その役を演じているスターのよう。
スゴイのは2番の歌詞ですね。
乗っ取り犯もスーパースター
ハイジャック事件の犯人も、ニュースで派手に取り上げられて、まるでスターのようだと。
テレビ時代の到来で、日常のニュースが非現実的な映画・ドラマのようになり、ニュースに登場する人物は、たとえ犯人でも映画の主役を演じるスターのようになる。
一般市民は、テレビの中のニュースを「Watch&enjoy」…安全な場所から眺めて楽しむ。
ニュースは現実感を失うことで、自分とは関係のない遠い世界の出来事になっていきます。
世界で起きる大きな出来事はただのショーで、薄っぺらい興味だけを誘い、人々はそのニュースについて、自分と結びつけて深く考えることができなくなっていく(後で述べる政治への無関心にもつながる)。
チャンネル切れば別世界
テレビの中の世界と、自分の生活は「別世界」なのです。
「日本中傷つき挫けた日」とは?
「ショウ・タイム」の1番には、意味深な歌詞があります。
日本中望みをあからさまにして
日本中傷つき挫けた日がある
だから話したがらないだれも話したがらない
「日本中望みをあからさまにして日本中傷つき挫けた日」とは、何年の何月何日のことなのか。
私は、最初に「ショウ・タイム」を聴いた時は、終戦記念日のことなのかな?と思っていました。
が、よく考えると「ショウ・タイム」は1985年発表で、終戦からは時間が経ちすぎていますし、終戦のニュースはラジオで流されたので、「ショウ・タイム」のテーマとは外れていますね。
この表現は、「日本中」がテレビで一斉に流されるニュースを見て、テレビに誘導される形で「望みをあからさまに」し、いっせいに「傷つき挫け」る…テレビ時代におけるニュース一般のことを指しているように見えます。
全体としてのニュース一般を指している…と思いますが、あえてどのニュースかを考えてみると、思いつくのは1972年の「あさま山荘事件」です。
私が生まれる前の出来事で、リアルには知らないのですが、この事件はテレビが警察と立てこもり犯の銃撃戦を中継したことで知られています。
この事件の最高視聴率は90%近くあり、日本中がテレビを通じてリアルタイムで事件を目撃しました。
実況を担当していたNHKのアナウンサーの、この言葉はよく知られています。
人間が人間に狙いをつけて、銃で撃っているということを、そのまま同時にテレビで中継している。この犯罪そのものが異常であることはもちろんですが、テレビでこんなに長時間、茶の間に送り込まれるということ、そのことの異常さ。そんなことが同時に進行している。異常なことの積み重なりで、大変恐ろしくなりますね。
ハフポスト日本版より
「あさま山荘事件」を起こした連合赤軍は、逮捕後に内部での凄惨なリンチ殺人が判明し、若者たちの学生運動が急速に終焉するきっかけになったと言われます。
学生運動の挫折を象徴するような事件ですが、中島みゆきさんは「ローリング」の歌詞でも、この挫折感を描いています。
「日本中」という表現はオーバーかもしれませんが、学生運動を支持する層が、革命が成功するという望みをあからさまにしながら、それが失敗する様子をテレビ中継で見て、傷つき、革命への夢が頓挫した…こういう風に読むことも可能な歌詞かな、と思います。
ただ「ショウ・タイム」の歌詞は、「ローリング」とは違い、この世代の挫折感そのものではなく、テレビが人々の価値観に大きな影響を及ぼすということに主眼が置かれていると考えます。
このニュースに「傷つき挫けた」ため、人々は事件のことも、そして事件の根幹にあった政治的なことも「話したがらない」ようになった。
そうして日本の世相は、政治への無関心へと傾いていく。
決まりきった演説 偉いさんの演説
揺れるジェネレイション イライラの季節
…この流れは世界各国とくらべて投票率が低い、現在の日本まで続いています。
私は投票はかろうじて行くけど、政治への関心はかなり薄い…。他人事ではないですね。
まとめ
「ショウ・タイム」の歌詞は、「テレビ時代がもたらした人々の変化」というテーマでまとめられるかなと思います。
テレビがもたらした変化とは…
…こんな感じかなあ。
インターネットが普及した現代は、昔ほどテレビの影響力はなくなりました。
しかし、
私特技はハイジャンプ 私苦手は孤独
ここの表現などは、現在のインターネット社会にも当てはまる気がします。
人々はやはり地味な生活に退屈していて、「ハイジャンプ」=ネット世界のSNSなどで自己を表現し、スターになりたいと、どこかで思っているのでは…。
そして誰ともつながらない生活=「孤独」は苦手なのです。
今から40年くらい前に描かれた歌詞でありながら、現在の私たちにも響く…中島みゆきさんの感性の鋭さ、ですね。
「ショウ・タイム」を聴けるアルバムはこちらの2枚です。