村上春樹さんの「東京奇譚集」を読んだ感想です!
「東京奇譚集」はどんな作品?
「東京奇譚集」は、2005年に刊行された村上春樹さんの短編集です。
5つの短編小説が含まれています。
収録されている話は…
…この5作品です。
「東京奇譚集」というタイトル通り、すべての物語が「東京」と「奇譚」を含んでいます。
「奇譚」といっても、かなり現実離れした話は「品川猿」くらいで、他の話は「それくらいの奇妙な話は現実で聴くことがあるかもしれない」という程度の風味です。
ちなみに「ハナレイ・ベイ」は、2018年に映画化されました。
「東京奇譚集」は面白かった?
村上春樹作品を読むのは、結構久しぶりでした。15年ぶりくらいかもしれません。
今まで、村上春樹作品は何作か読みました。
「ねじまき鳥クロニクル」までの作品はほとんど読んでいて、特に面白かったのは「羊をめぐる冒険」と「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。
読んだ村上春樹作品がすべて面白かったということはなく、「ノルウェイの森」は微妙。
全体としては面白い作品とイマイチな作品が7:3くらい…という感じでした。
ですが「スプートニクの恋人」以降は、出版される村上春樹作品はだんだん面白く読めなくなってきて、そのうち手に取って読まなくなってしまいました。
私と村上春樹作品の歴史はこんな感じだったので、「東京奇譚集」は面白く読めるか心配だったのですが、端的な感想としてそれなりに面白かったです。
一つ一つの話が静かな雰囲気で、ストーリーそのものの先が気になりましたし、村上春樹特有のエッジの効いた文章表現も楽しめました。
特に面白いと感じたのは「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」の2作ですね。
村上春樹作品が苦手という人は私の周囲にも多く、私も好きな作品と苦手な作品があるので、苦手な人たちの気持ちは少しわかります。
ですが「東京奇譚集」は、村上作品の中でアクが少ない方と感じました。村上作品が苦手な方でも、読みやすいかもしれません。
人生にチャンスは3回!?
あまり物語の本筋とは関係ないかもしれませんが、野球好きの私にとって、一番印象に残ったのは「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てきた野球要素ですね。
この作品は、父親から「男が一生の中で出会う本当に意味のある女性は3人だけ」と言われた男性が主人公です。
彼は既に1人目には出会っているという確信を持っています。その女性は彼の親友と結婚してしまっています。作中には登場しません。
で、主人公は、作中で出会う女性を、2人目にカウントするかどうか迷う…というあらすじです。
主人公は野球の打席になぞらえて、心の中でこう思案します。
残された二人のうちの一人なのだろうか?二球めのストライクなのか?見逃すべきか、あるいはスイングするべきか?
そして結局、自分から去ったその女性を、2人目の女性としてカウントすることに決めます。
ストライク・ツー。残りはあと一人ということになる。しかし彼の中にはもう恐怖はない。大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ。
…めっちゃ「一球入魂」の精神じゃないですか!
打席には常に一球入魂の気持ちで立て、と。追い込まれてもその精神があれば、何も恐れる必要はない…そういうことですかね!(そんな単純じゃない?)
まあ異性愛に限らなくても、人生には本当のチャンスというものは、3回くらいしか到来しないのかもしれない。
野球の一打席が、無意識にそんな人生の特性を反映しているのだと考えると、ちょっと面白いです。
あらゆるスポーツのルールは、どこかで人間の思考グセや、人生、世界のあり方といったものが顕現したもの…なのかもしれません。
ちなみにこの話は、作家である主人公が作中で書いている短編小説とストーリーがリンクしています。
作中の小説に出てくるのが「日々移動する腎臓のかたちをした石」なのですが、この石が、最後に消滅します。
おそらくこの石は、作者を縛り続けていた「人生で出会う3人の女性」の呪いみたいなものだったのではないかと思います。
彼の中にずっとあった「人生の中でたった3人しか意味のある女性に出会えない」という恐怖が、一球入魂(?)の精神にたどりつくことで、石は消えたんだろうな…と感じました。
まとめ
村上春樹の「東京奇譚集」の感想でした。
もう一つ、ちょっと気に入った部分を引用しておきます。
私たちはあるときにはむしろ、自らを生きさせないことを目的としてものを考えているのかもしれません。ぼんやりする―というのは、そういう反作用を無意識的にならしている、ということなのかもしれません。
どこであれそれが見つかりそうな場所で
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったように、思考することは人間が生きることの本質ではあります。
ですがそのテーゼを覆すように、考えること自体が人生を蝕むこともあります。
そうならないように、私たちはぼんやりした時間を過ごすことがある…そういうことですかね?
そうすると私はよくぼーっとしていることがあるのですが(若い時はそれでよく親や先生に叱られたなあ)、それは私にとって生きるために必要なことなのかもしれないですね。
と、自分に都合よく解釈したところで、この感想文を閉じたいと思いますっ!