今まで知らなかったのですが、世の中には「古文・漢文などの古典教育不要論」というものがあり、受験の時期になると盛り上がるそうです。
私は「古文は好き。漢文はあんまり」なんですが、今まで日本語古典の教育が必要ないなんて思ったことはなかったので、ちょっとビックリ。
なぜ私が古典教育が必要ないと思わないのか、自分の頭の中を整理してみました。
歴史学習が必要なら古文・漢文は必要
まず古文・漢文教育が必要な理由として、非常にストレートな答えが「古典は歴史学習のツールだから」という解答です。
歴史だって突き詰めれば個人の人生に絶対的に必要なものではありませんが、現代日本で「歴史教育が不要」という考えの人はあまりいないでしょう。
話が脱線しないように、ここでは歴史教育が必要かどうかの話はしません。
昔のことを知るなら、当然、昔の言葉がわからなければなりません。
これは日本だけに関わらず、ヨーロッパ史を学ぶためには、現代のヨーロッパで読み書きされている言語だけではなく、ヨーロッパ言語の古典であるラテン語などの学習が必要になるのと同じです。
人間が歴史を学ぶことが必要なら、そのツールとして昔の言葉が読めなければならない。
理系で言えば、物理学を学ぶために数学が必要ということですね。
言語習得ノウハウを身につけるための古文・漢文
それから古文・漢文が必要な理由として、人間と言語の密接な関係も挙げられます。
人間が他の動物と大きく違っている特徴のひとつが、体系的な(感覚的じゃない)言語を持っていること。
人間が言語を体得していく過程は、まだ解明されていない部分もありますが、ネイティブな言語とそうでない言語の学び方に大きな違いがあることは、だいたい納得できるでしょう。
日本で生まれ育った場合は日本語を体得するのに全然苦労しませんが、周囲の人々が日常的に使っていない言語、たとえば英語を習得するのは大変です。
人間が未知の言語を学ぶ際は、ある程度、文法ルールなどを学ぶ必要があります。
長い人生ではどんな言語が自分に必要になるかわかりません。日本の学校教育で学ぶ英語や古典が、自分の人生には結局必要ない可能性もあるでしょう。
ですが、未知の言語を学ぶ訓練を積んでおくことは、いつか全く知らない言語を学ばなければならない状況に陥った時に、必ず生きてきます。
未知の言語を学ぶ際は、主語+述語などの文型を確認する、動詞の活用を知る、文と文のつなぎ方を知る…など、いわゆうノウハウを知っておくことは「何から学習すればよいかわからない」というお手上げ状態よりは、一歩進んだ状態です。
「言語学習のノウハウ」を学ぶために、外国語としては身近な英語、ネイティブである日本語の古典、この2つが日本の教育で採用されるのは妥当な選択かなと思います。
もっと極論言っちゃえば、いつか宇宙人に出会ったときに宇宙人の言語を解明する際は、世界中のありとあらゆる言語の文法が参照されることでしょう。
そのためにも、日本古典のような現在では使われていない言語のルールを、人類の遺産として残しておく意味はあるのではないでしょうか。ちょっと飛躍しすぎかな?
「必要ないかもしれない」ものが人生を広げる
さて、ここまでは「古文・漢文は必要だと思う」という論調で来ました。
ですが人によっては「歴史学習も必要ない。だから古典不要」「未知の言語を学ぶつもりない。だから古典不要」という人もいるでしょう。
しかし、こんなこと言っちゃったら、学問のほとんどは不要になりますね。やりたい人だけがやればいいということになりますから。
それに不要という言葉を使うなら、学問以上に、ほとんどの娯楽は不要です。小説もマンガもアニメも映画もゲームも不要です。
では何故世界は不要なものであふれているかというと、私の考えでは、人は無数の選択肢の中から何かを選び、その過程でアイデンティティを形成していくから…です。
自分にとって必要か不要かを判断するためにはいったんそれに触れるしかないのではないか。
結果的にはそれは自分に不要なもので、向き合った時間や労力はムダかもしれない。
ですが、必要か不要かを判断するための時間そのものは、アイデンティティの形成にとってはムダではないです。それが不要だと判断することだって、自分らしさの一部ですからね。
娯楽は人生の中で出会うきっかけは多いですが、学問は強制的な出会いを作らないと、なかなか出会えないものもある。
古文・漢文だけでなく、一生使わないような数式も、強制的な出会いが運命的な出会いとなり、人生を大きく変えていく可能性もあります。
余談ですが私は親の方針で漫画・アニメ・ゲームが一切禁止された子ども時代を送りました。そのためアニメやゲーム制作に関わる将来像は限りなく閉ざされたと思っています。知らなければ可能性はゼロなんですよね。
「1984年」を読んで私の考えも変わった
私は昔から「古文がムダ」だと思ったことはありませんでしたが、実は「漢文はちょっとムダかも」という気持ちはありました。
そんな私の考えが大きく変わったのは、ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んでからです。
「1984年」では、世界のあらゆるムダが省かれる全体社会が描かれます。
この本を読んで、人間…というか世界にはムダ(=余裕?)が必要だと強く感じました。
必要最小限のものだけに囲まれた即物的な生き方は、人間には無理なのではないか、と。
「ムダ」は人間にとって、選択肢を広げ、人生観を広げ、情緒を育て…そして世界を豊かで味わい深いものにしていくスパイスなのではないでしょうか。
このスパイスなしには、文字通り世界は味気ないものになっていくでしょう。
現代人はムダを嫌うとよく言われますが、世界からムダを削ぎ落としすぎると、文明は衰退しはじめるんじゃないかという感覚があります。
もちろん資本主義経済にはムダが多すぎるという側面はありますが、ムダをなくしすぎることも危険…要するに中庸ですね。何もかも「ほどほど」にですね。
まとめ
というわけで、「古典・漢文不要論」に対する私の現段階の考えをまとめておきます。
古典が受験に必要かというのはまた別の話で、史学や語学など必要な学部では受験科目に入れて、関係なさそうな学部では外せばよいのかなと思います。
現段階の考えではこんな感じですね。高校時代は大嫌いだった一生使わないであろう難解な数学についても、今はだいたい同じような考えを持っています。