安部公房の「砂の女」を読んだ感想です。
想像以上に衝撃的で怖い作品でした…。
この怖さがどこから来るのか、いろいろ考えてみました。
怖かった…2日間くらい眠れなかった…
「砂の女」は近代日本文学の傑作と言われる作品です。
まずはネタバレなしの感想ですが…怖かったです。途中で読むのをやめようかと思うくらいでした。
読み終わっても恐怖がまさしく砂のように自分の中に残っている感じがあり、2日くらい眠るときに思い出してしまって身震いしました。
ですが読後3日ほどたって、物語の内容をしっかり吟味したい気持ちが抑えられなくなり再読しました。
この怖さはグロテスクな怖さではなく、心理的な怖さ…主人公のような境遇に追い込まれたくない…という怖さです(この怖さについてはあとで考察します)。
「怖い本は苦手」という方におすすめするかは、難しいところですね。
「怖い本を読んだら眠れなくなる」という人は、休みの前の日とかに読んだほうがいいかなとは思います。
「砂の女」より「砂の家」が印象に残った!
「砂の女」は、日常からの逃避とか、監視される生活とか、エロティシズムとか…いろいろなテーマで読める小説です。
その中で私が一番印象に残ったのは、主人公が閉じ込められる家の立地です。
私が女性だからかもしれませんが、タイトルは「砂の女」ではなく「砂の家」のほうが適切なのではないかというくらい、女より家のほうが印象に残りました。
主人公が閉じ込められる家をここでは「砂の家」と名付けて、少し考察してみます。
「砂の家」はどんな場所にある?
主人公が閉じ込められる家は、集落の一番外側、崩れてくる砂の山に最も接した場所にあります。
つまり、崩れてくる砂から集落を守る砦のような役割を果たしているのです。
この一番外側の集落…砂山から見て一列目の家が砂の侵入に負けて崩壊すると、次は二列目の家が砂と戦わなければならなくなる。
まるで戦場における戦線のようです。
「砂の家」の住民は強制労働を課されている
さて私が「砂の家」の立地を見て思い出したのは、「進撃の巨人」に出てくる城壁から突出した町です。
「進撃の巨人」の物語で、壁から飛び出すように作られた居住区は、巨人をおびき寄せるための囮のような危険区域です。
そんな危険地区に好んで住みたい人などいないため、突出区域に住む人たちは経済的優遇を受けています。
「誰かが住まなければならない環境の悪い場所」の住民に、行政から何らかの優遇措置が行われるのは当然のことですね。
しかし砂から集落を守る最前線に住み、毎日砂かきによって砂の侵入を防ぐ「砂の家」の住民に対し、何らかの行政的な優遇は見られません。
それどころか「砂の家」の住民は、家から出るための縄梯子を取り上げられ、監禁状態で強制労働を課されています。
主人公は「働かなければいいだけ」と砂かきをボイコットしますが、水の供給を絶たれ、水と引き換えに砂かきをせざるを得なくなります。
「砂の家」の理不尽な仕組みは現実にも存在していないか…
「砂の家」がある集落には、「愛郷精神」という言葉が標語のように掲げられています。
「愛する自分の村を砂から守りたい」という気持ちはわかります。
それならば「愛郷精神」がある者たちが、自分で砂かきをすればよいのではないか。
しかしこの集落の者たちは自分たちでは砂かきをせず、一番外側の家に主人公のように外から来た者を閉じ込め、砂かきを強制します。
この仕組みに気づいたときには、背筋がぞわっとするような怖さがありました。
というのもこういう理不尽な仕組みは、現実世界のあちこちに今でも潜んでいるのではないか…と思ったのです。
世界を成り立たせるために誰かがやらなければならないけれど、誰もやりたくない仕事。
その仕事を「自分でない誰か」にさせるシステムを作り、そのシステムを保持することで私たちは世界を愛し、守っている気分になっているのではないか…。
本当は残酷な世界の姿を、「愛」と名づけたヴェールで隠すことで、私たちは自分や世界を正当化しながら生きているのではないか…と。
砂丘と集落の戦い…敗北を先延ばしするために
話を「砂の家」の立地に戻します。
「砂の家」は、砂丘と集落の境界に位置しています。
砂丘と集落は、それぞれ混沌と秩序を象徴しているように感じました。
秩序立った世界は、秩序を乱そうとする混沌の侵入と戦いますが、最後は混沌に負ける…というのが、現在の科学の知見です。
…よね?エントロピーの法則的な。間違っていたらごめんなさい!
生命が必ず死を迎えるのも、この原理に基づいているのでしょう。
で、いつかは必ず死んでしまう生命ですが、「なるべく死を先延ばしにしたい」というのが本能です。
「砂の女」に登場する砂地の集落も、きっといつかは集落ごと砂に飲み込まれてしまうのでしょうが、そのXデーを先延ばしにするために、砂かき(強制労働)が行われます。
県にとっても集落の暴挙は都合がよい?
この集落によって捕えられた人間は主人公が初めてではないようで…この砂地の集落に出かけて行った人間が行方不明になるという事例は、積み重なっているはずです。
それにしては、集落の人たちが恐れている「県の調査」は頻繁にやって来ないです。
何となくですが…この集落で行われている非人道的な犯罪を、県は見て見ないふりをしているのではないか…と感じました。
なぜか?
それはこの集落が砂に飲み込まれて(大げさな言い方だと)砂漠化が進めば、砂は次に砂丘から近い町へと侵攻してくるからではないか。
砂(=混沌)と町(=秩序)の戦いは陣取り合戦のようなもので、なるべく秩序の陣地を広くするために、現在の戦線を維持しておきたい。それもできればコストのかからない方法で。
一番コストのかからない労働は、奴隷労働です。
もし集落が砂の被害を正式に県に訴えて、県が防砂のためのツールを作ったり、集落に補助金を与えたりするとコストがかかります。
穴の中の家に住む人々は集落の住民に利用されているけど、集落の住民は県に利用されている、もしかしたら県はもっと大きなスケールで利用されているかもしれない…。
混沌との陣取り合戦…これは人類が文明を生み出して以来ずっと続けている戦いですが、現在でも最前線で戦っている(もしかしたら戦わされている)人間は存在するはずです。
「砂の家」は、私たちにとって無縁なものではないのでしょう。
怖いのは人間の尊厳を剥奪されていく過程
さて「砂の女」の怖さは、物語が時代や場所を超えた人類の普遍的な営み=「混沌との陣取り合戦」を描いていて、自分と無縁だと思えないというところにあるように思います。
「砂の女」の主人公は、徹底的に監視され、監禁されて移動の自由を奪われ、そして徐々に人間の尊厳も奪われていきます。
彼を監禁している集落の人々に、自由に穴から出るための縄梯子をつけてもらうよう交渉した際、ひきかえに提示されたのは、公衆の面前で女と「あれ」をして見せろという、人間の尊厳を踏みにじるような要求です。
もともとプライドが高そうな主人公ですが、この場面では「それでもいい」と思ってしまいます。
人類が混沌との陣取り合戦を続けざるを得ない限り、世界の淵で混沌と戦う存在は必要だし、場合によってはその存在は奴隷化され、人間の尊厳を剥奪されていく。
そして、自分が剥奪される側にならないなんて保証はどこにもない。
砂の家は足元にひそんでいて、誰でも運悪く落ちてしまう危険はある。
だから「砂の女」はこんなに怖い小説なのか…。
…怖さの正体がわかったら、ほんの少しだけ怖さがやわらぎました!
まとめ…「砂の女」はいろいろな読み方ができる
「砂の女」について、世界の淵としての「砂の家」という部分に焦点を当てて、この物語の怖さについて考えてみました。
実は私は「砂の女」を高校生の時に読んだことがあり、その時は全く面白く感じませんでした。
高校生にとっては何のために男が閉じ込められなければならないのか、ちんぷんかんぷんだったのでしょうね。
「砂の女」にはいろいろなテーマが散りばめられていて、どの角度から読むかによって印象が変わってくる小説だと思います。
小説の終わり方も読み方によっては、ハッピーエンドにもバッドエンドにも見えるでしょう。
また、女は集落の人々とグルだと考える人も多いようですが、私には女は男と同じ完全な被害者に見えました。
時間をおいてから、何度でも読み直したくなる作品です。
そういったところも含めて、名作なんでしょうね~。
それほど長い本ではないので、電子書籍で読むのもおすすめです。