中島みゆきさんの「おだやかな時代」という歌の意味を解釈してみます!
「おだやかな時代」はどんな歌?
「おだやかな時代」は、1991年に発売された中島みゆきさんのアルバム「歌でしか言えない」の2曲目に収録されている歌です。
歌詞全体は、こちらのUta-Netのページでご覧ください。
もともとは、ニュースステーションの「日本の駅」というコーナーのテーマソングだったそうです。
そのためか、歌詞には「駅」「レールウェイ」「標識」「レールの先」「止まり方」などと、駅や鉄道を連想させる歌詞が縁語のように散りばめられています。
曲調は明るく力強い感じで、中島みゆきさんの歌にしては珍しく、ソウル系っぽい雰囲気もあります。
「おだやかな時代」ってどんな時代のこと?
「おだやかな時代」というタイトルが示す時代は、おそらく歌が発表された1990年前半頃のことでしょう。
1995年にオウム真理教事件や阪神・淡路大震災が起こるまで、1990年代前半の日本は、確かに比較的「おだやかな時代」だったような気がします。
私は当時、小~中学生くらいでした。
ただ、「おだやかな時代」という言葉が指すのは、時代のおだやかさだけではないでしょう。
おだやかな時代 鳴かない獣が好まれる時代
おだやかな時代に好まれるのは、「鳴かない獣」=おとなしい人々。
では逆に「鳴く獣」がどんな人々かというと…1990年にはもう完全に姿を消していた、1960~70年代頃に政治や社会の問題に対して声を上げていた人々のことでしょう。
団塊の世代を含む、1940年後半~1950年前半生まれくらいの人々ですかね。1952年生まれの中島みゆきさんが、ギリギリ含まれる世代かと思います。
「鳴く獣」だった人たちが、おだやかな時代には「鳴く」=「うるさく声を上げる」ことを厭われて、おとなしく生きるようになったということでしょう。
興味深いのは、この時代には「空気を読む」とか「同調圧力」といった言葉はトレンドではありませんでしたが、既に空気を読むようにして、時代に合わせて生きる人々の姿が描かれていることですね。
「空気を読む」「同調圧力」は、「おだやかな時代」であった1990年代前半には、問題とされることもないくらい普通のことだったのかもしれません。
おだやかに傷ついていく人々の姿
「おだやかな時代」で何度も繰り返されるフレーズの歌詞は、下記のとおりです。
毎日 Broken my heart 声もたてずに
毎日 Broken my heart 傷ついていた
時代に合わせておとなしく生きているうちに、気がつけば静かに自分は傷ついていた…そんな切ないフレーズです。
さて、しかしなぜ「声もたてずに」生きることで、傷ついてしまうのか。
そこを考えるキーワードとして、「おだやかな時代」の歌詞には「愛」という言葉が2回登場します。
標識に埋もれて僕は愛にさえ辿り着けない
僕はジョークだけが上手くなった 愛を真に受けてもらえなくなった
おだやかな時代の人々は、「標識」=このように生きるべきという同調圧力のようなものに従って生きていきます。
実際に私が小・中学生時代を過ごした頃、日本人の生き方はまるでレールをあらかじめ敷かれているかのようでした。
小学→中学→高校受験→大学受験→就職→結婚…。
現在でもそれほど変わっていないレールではありますが、私が小中学生だったころ、「このレールからはみ出すことは許されない」という雰囲気は、今以上に強かったように思います。
私はそのような価値観・方針の、子育てや学校教育を受けたため、実感として強く残っています。
標識に従ってレール通りに進む生き方が目指すのは、「社会的な成功」です。受験や就職だけでなく、結婚でさえも、成功/失敗の文脈の中にあります。
それに対し「愛」とは(ちなみに個人的にはあまり好きな言葉ではありませんが)、社会的な成功/失敗の文脈とはかけ離れた、もっと自分が自分であるゆえん…アイデンティティに関わる領域のものでしょう。
社会の空気に迎合する形で、ジョーク=表面的で軽いことばかり言っているうちに、「愛」のような重い言葉はジョークでしか使えなくなってしまった…そんな感じでしょうかね。
「愛」に限らず、「夢」とか「信念」とかアイデンティティの本質にかかわる部分を失い、表面的に生きているうちに自分の本質的な部分は損なわれてしまった…それが「声も立てずに毎日傷ついていた」ということなのかなと思います。
天使は誰で、何に怯えている?
「おだやかな時代」で最も難解に感じるのは次のフレーズです。
僕に怯える天使たちよ 僕は君ほど強くないさ
天使ってどんな人のこと?なぜ天使は僕に怯えている?そして僕が天使より強くないとはどういうこと?
まずこの歌の一人称である「僕」ですが、冒頭のフレーズに
まだ眠っている町を抜け出して駆け出すスニーカー
おだやかでなけりゃ残れない時代 少し抜け出して
…とあるように、おだやかな時代に迎合して生きる一方で、このおだやかな時代を少しだけ抜け出したいという気持ちを持っています。
止まり方しか習わなかった町の溜息を僕は聞いている
という部分からは、止まり方しか教えてくれない時代=レールから外れようとするとストップをかける時代に対し、「僕」以外にも違和感や閉塞感を感じている人々がいることが示唆されています。
こういう、時代の空気に反発する人々に対して怯えるのは、時代に適合し時代の空気を作り出している人々でしょう。この、時代に適合した人々のことを天使と呼んでいるのではないでしょうか。
一般的な「天使」のイメージとは違いますが、1990年代前半の空気に適合したおだやかで優しい人々を、特に皮肉やマイナスな意味をこめずに「天使」と呼んでいるのかも。
この天使たちは時代に反発する人々=重い言葉を使って深刻な問題に声を上げる人々を、空気を乱す存在として怖がります。
しかしおだやかな時代には、鳴く獣は力を持ちません。誰も獣が叫ぶ重い内容に耳を傾けません。
おだやかな時代には、鳴く獣より圧倒的多数である天使の方が強い…そんな解釈ができるのかな…と思います。
駅やレールは自由?不自由?
さて「おだやかな時代」の歌詞を以上のように解釈していくと、「駅」「標識」「レール」など、鉄道を連想させる縁語は、どちらかというと否定的な響きに聞こえてきます。
敷かれた「レール」に沿って生きて、「標識」=世間の価値観に従って、受験・就職・結婚など決められたポイント=「駅」を経ていく人生…。
田舎育ちの私にとって、大学進学で東京に出てきたとき、鉄道は「自由な都市」の象徴のような存在でした。
田舎では公共交通機関を使って行ける場所は限られていて、子どもがどこか遠くの特別な場所に行くには、誰か大人にお願いして車を出してもらわなければならない。
私が住んでいた町は勾配のある道が多く、自転車では自由にあちこち行きにくい地形でした。
大人の許可がなければどこにも行けない…そんな不自由さがあったため、どこにでも自由に行ける鉄道のネットワークを手に入れた時は、移動の自由を強く感じ非常に嬉しかったです。
そんな私にとって鉄道は自由の象徴だったため、このように鉄道にまつわるワードが不自由の象徴として使われると、不思議な感じがします。
同じものでも、それを見る人や角度によっては全く逆のイメージになる…「おだやかな時代」ではそれを強く実感しました。
まとめ
中島みゆきさんの「おだやかな時代」の歌詞を、自分なりにいろいろ考えてみました。
実は「おだやかな時代」は、最初聴いた時にはあまり好きではなかったのですが、聴けば聴くほど好きになっていった歌です。
中島みゆきさんの歌は、はじめは良さがわからず、だんだん好きになっていくという作品は結構あります。アルバム単位でもこういうことがよくあります。
だから何度も何度も繰り返し聴いてしまうんですよね。