中島みゆきさんの大曲「二隻の舟」の歌詞を解釈してみます!
「二隻の舟」はどんな歌?
「二隻の舟」は、中島みゆきさんが主に1990年代に取り組んでいたステージ「夜会」のテーマ曲です。
アルバムには2度収録されています。
最初は1992年発売の「EAST ASIA」というアルバムの8曲目。
「EAST ASIA」は「浅い眠り」「誕生」「糸」など、中島みゆきさんの代表作が複数収録されている名盤です!
2度目は3年後の1995年に発売された、夜会で歌われた曲を中心に作られたアルバム「10WINGS」の冒頭に収録されています。
「EAST ASIA」版の「二隻の舟」と、「10WINGS」版の「二隻の舟」はアレンジがずいぶん違います。
私は「EAST ASIA」版のほうが好きです!
「二隻の舟」のテーマはシンプル
「二隻の舟」に歌われているテーマ自体は、シンプルでわかりやすいです。
最後のクライマックス部分の
わたしたちは二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの
という表現からわかるように、魂の片割れのような関係にある一対の運命について歌い上げています。
そもそも「二隻の舟」というタイトルに、歌のテーマが込められています。
中島みゆきさんは「二隻の舟」と書いて「にそうのふね」と歌いますが、「二隻」は本来「にせき」とは読むのが正しく、「にそう」と読むのは当て字です。
パソコンで「にそうのふね」は「二艘の舟」としか変換されないので「あれ?」と思っちゃいます。
おそらく「にせき」より「にそう」の方が、音楽的に美しい響きだと考えたのでしょうが、「艘」ではなく「隻」の字をわざわざ当てたところに中島みゆきさんのこだわりが見えます。
「隻」という漢字には舟を数える単位として以外に、「対になったものの片方」という意味があるそうです。
「二隻の舟」が、片方を欠かすことができない二つの魂を歌っているため、「隻」の字をあえて使っていると考えられます。
中島みゆきさんの歌には「魂の片割れ」をテーマにしたものがいくつかあり、「HALF」「ふたりは」「炎と水」などがそうだと思いますが、その中でも「二隻の舟」は特に名曲だと思っています。
「二隻の舟」で解釈が難しい場所は?
「二隻の舟」は、歌っているテーマはシンプルなのですが、深遠すぎて考え込んでしまう歌詞がいくつか出てきます。
私が解釈につまづく箇所を、いくつか挙げて考察してみます。
「愚かさをください」ってどういうこと?
まずは冒頭の歌詞です。
時は 全てを連れてゆくものらしい
なのに どうして 寂しさを置き忘れてゆくの
いくつになれば 人懐かしさを
うまく捨てられるようになるの
冒頭はこのように、時間が経てば悲しさやつらさは和らいでいく…しかし、時は寂しさだけは解決してくれないと歌います。
時間が経ち心の傷は癒えても、「人懐かしさ」…「二隻の舟」に出てくる「おまえ」がいない寂しさだけはどうにもならないということでしょう。
ここはわかるのですが、その後に出てくるここの部分が難しいんですよね。
時よ 最後に残してくれるなら
寂しさの分だけ 愚かさをください
この歌詞の意味がわからない私は、不惑の年を超えてもまだ人生のヒヨッコなのだろうか…。
ここでいう「寂しさ」は「人懐かしさ」=「おまえが恋しい」という意味とほぼ同じでしょう。
で、「寂しさ」はいらないではなく、「寂しさ」と同じ量だけ「愚かさ」が欲しい。
どういう意味かなあ…。「愚かさ」があれば、何ができるのだろうか…。
かろうじて想像できるストーリーは…
ここで歌われている二人は、お互いに運命の相手ながら「のっぴきならない事情」で離れてしまっている。相手と会えないのは寂しく、その寂しさの分だけ愚かになれれば、「のっぴきならない事情」など無視して、何にもかなぐり捨てて、二人で一緒になれるのに…。
…こんな感じですかね。自信ないです。実に難解な歌詞です。
「時流を泳ぐ海鳥たち」とは?
「二隻の舟」の歌詞で、もう一つ難しい箇所はここです。
時流を泳ぐ海鳥たちは
むごい摂理をささやくばかり
いつかちぎれる絆見たさに
高く高く高く
「いつかちぎれる絆」は、「わたし」と「おまえ」の関係のことでしょう。
「むごい摂理」は、「どうせ二人は別れる運命なのだから諦めなさい」というニュアンスではないかと想像できます。
では「時流を泳ぐ海鳥」とは?
ここで思い出すのは中島みゆきさんの結構初期の頃の歌、「時は流れて」という歌詞の一部分です。
泳ごうとして泳げなかった 流れの中で
(「時は流れて」より)
この歌は、愛する人と別れて自暴自棄に生きてしまった女性が主人公です。
愛する人に会いたいと思っていたけれど、「泳ごうとして泳げなかった流れの中で」自分は変わってしまい、そんな自分をもう見られたくない…という部分で使われている表現です。
つまり、しっかり生きなかったため時代に上手に乗れず、人生で成功できなかった…そんな感じの意味に感じます。
「時流を泳ぐ海鳥たち」は、その反対の表現という感じで、愚かな選択をせずに時代にしっかりと乗っかって、成功・安定した人生を送っている人々ではないでしょうか。
安定した人生を送る人々は、自分の安定した人生に安堵する一方で、型破りな生き方をする自由人をうらやむこともあります。
「わたし」の周囲で安定した生活を送る人々は、「わたし」が「おまえ」とドラマチックな結末を迎えるのはどこか気に入らないため、「わたし」に「おまえ」を諦めろと言い続ける…ということですかね。
最後の「高く高く高く」は、中島みゆきさんならではの鋭い表現かなと思います。
安定した人生を送る人々を「海鳥」にたとえているため、この人々が二隻の舟(=おまえとわたし)のはるか上空を飛んで、ドラマチックなことにならないように見張っているイメージを受けます。
また「高く高く高く」と3度も繰り返すことから、うらやむ一方で、安定した生活の方から「わたし」を見下しているようなイメージも浮かび上がります。
二隻の舟はどんな関係性なのか?
さて。「二隻の舟」にたとえられている「おまえ」と「わたし」は、どのような関係性なのでしょうか。
ヒントとなる歌詞を挙げてみます。
おまえとわたしは たとえば二隻の舟
暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟
風は強く波は高く 闇は深く 星も見えない
風は強く波は高く 暗い海は果てるともなく
風の中で波の中で たかが愛は 木の葉のように
「互いの姿は波に隔てられても」という表現から、「おまえ」と「わたし」は一緒に生活していなくて、離れて生きていることが示唆されます。
離れていても「同じ歌」を歌っているという表現は、解釈の余地が2通りあるかなと思います。
- お互いに「同じ」ように相手を愛している(「たかが愛」という表現が根拠)
- 価値観や思想が「同じ」である
ここはどちらの解釈を取るか…というより、どちらの意味も込められていると考えていいのかな、と思います。
「同じ」価値観を持ち、「同じ」ように相手を愛しているけれど、離れて生きていて、強い風、高い波、暗い海に象徴されるように、二人とも困難な状況を生きていることが推察されます。
お互いに離れて困難な人生を生きていますが、
敢えなくわたしが 波に砕ける日には
どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう
それだけのことで わたしは海をゆけるよ
おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ
越えてゆけ と叫ぶ声が ゆくてを照らすよ
相手がこの世のどこかで生きている…ということが、困難な人生を支えています。
愛とは、離れずに一緒に暮らすこととイコールではない…離れていても損なわれない感情が、究極の愛なのかもしれないなあ…。
まとめ
というわけで、二隻の舟の歌詞についていろいろ考察してみました。
中島みゆきさんの歌は、失恋や別れの歌が多いといわれますが、こういった究極の愛を歌った歌も非常に聴きごたえがあります。
「二隻の舟」の歌詞は、40歳を超えた今でもまだよくわからない部分もあるのですが、10年後に聴くと、もしかしたらスッと身にしみこんでくる…なんてこともあるのかもしれません。
「二隻の舟」はアルバム「EAST ASIA」で聴くのがおすすめ!「誕生」「糸」など名曲ぞろいのアルバムです!