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ヴォルテール「寛容論」の感想!心の本棚に置いておきたい1冊

寛容論 本の感想
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フランスで、シャルリー・エブド事件の後にベストセラーとなったの古典文学が、ヴォルテールの「寛容論」

われわれの宗教が神聖であるという理由で、憎悪や憤激に駆られ、追放、財産没収、投獄、拷問、殺人行為をほしいままにし、またこうした殺人行為を神に感謝することによって、われわれの宗教はこの世を支配しなければならぬものであろうか。

18世紀に、プロテスタントを弾圧するカトリックへの批判として書かれた本です。

ヴォルテール自身はカトリックなので、他者を批判するのではなく、自分たち自身を省みているという内容が興味深いです。

ずっと「読みたい!」と思っていたのですが、ようやく読めたので、感想を書いてみます。

「寛容論」にはどんなことが書かれているの?

教会

「寛容論」は、18世紀にカトリック色が強いフランスの地域で、新教徒の一家が冤罪で裁かれた事件をきっかけとして書かれています。

この「冤罪」が直接のテーマではないのですが、民衆が思いこみでヒステリックに騒ぎ立て、事件を作り出していく場面を読んでいると、現代社会もまだ、この悪癖を克服できていないよなあ…と感じました。

作者ヴォルテールは、この一家が「新教徒だから」という理由で、カトリック教徒たちが無実の罪に追い込んだことを、「不寛容の精神」として批判します。

そして、この事件だけでなく、信仰の違いで起きる残酷な弾圧、宗教戦争への批判を展開します。

ところで「寛容」とは何か?

キャンドル

あらゆる迷信の中でもいちばん危険なのは、自分の見解のため隣人を憎悪する迷信ではなかろうか

この短い人生で、われわれと考えを同じくしない人々を迫害するのは、はなはだむごい仕打ちである

どちらも「寛容論」からの一節です。

「寛容論」では、キリスト教の宗教戦争がテーマなので、「寛容」は、「自分が信じる宗教を信じない異教徒の存在を認めること」というニュアンスで使われています。

ですが、もっと広い意味の「寛容」は、宗教に限らず、「自分と違う価値観を許容すること」と捉えることができるでしょう。

無宗教の時代を生きる現代日本人にとっては、「寛容」という言葉を、宗教にとらわれない形で読んだ方が、この本から得られるものが多そうです。

寛容を受けるためには自分が寛容でなければならない

仲良し動物

「自由を束縛する自由はあるのか?」という問題と同じように、寛容も無制限に寛容であることはできません。

「寛容論」には、

寛容を受けるに値するためには、まず人は狂信の徒[ここでは『社会の平和を乱す』者]であるのを止めることから始めなければならない

と、あります。

つまり、ヴォルテールの寛容論では、テロ行為に対する寛容は認めません。

自分の思想を認めてもらうためには、自分とは異なる思想も認めなければならない」と、転換することもできますね。

「寛容」は余裕からしか生まれない?

天使の像

「寛容論」の中で、

おもしろいなあ…

と、感じたのが次の一節です。

キリスト教が神聖であればあるほど、それを管理するのは人間であってはならない。神の御手によって生まれたのであれば、あなたが心配せずとも、神が御護りくださるであろう。

要するに、キリスト教が本当に正しい宗教であれば、キリスト教の教義を守るために、異教徒と論争・武力衝突をしなくても、神様の方でキリスト教をお守りになるだろうと。

いや、本当にその通りですよね。

「弱い犬ほど吠える」と言いますが、自分と異なる主義主張に目くじらをたてるのは、逆に自分の思想に自信がない証拠となってしまいます。

もちろん、自分と違う価値観の人と、意見を交換しあうことは、意味のあることだと思います。

ですが、それは「論争」でなく「対話」でありたいものですね。

自分の価値観に自信があればあるほど穏やかに話せるはずですから、考え方の違いを話しあう前に、まずは自分の価値観について、じっくり掘り下げて考える必要があるのでしょう。

「自分が正しい」からの脱出

花

人間は、自分の目線でしか物事を見ることができませんから、どうしても「自分が正しい」と思いがちです。

私もそうです。むしろ、その傾向が強い方かもしれません。

でもその一方で、価値観の違う人間がいて、多様性があるからこそ、この世界はおもしろいのだとも思います。

自分が正しい」というベクトルと、「多様性を認める」というベクトル。

「自分が正しい」に傾きがちな自分を諫める本として、「寛容論」を心の本棚に、大事に並べておきたいと思います。

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